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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第2章

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第1話「残り香」

窓の外で、鐘楼の鐘が午後の刻を告げていた。


低く長い余韻が学園の中庭を渡り、エステラの自室の窓硝子を微かに震わせて消えた。二週間前まで、この鐘の音を聞くたびに身体が強張っていた。次は何が来る、誰が動く、ミルフィが泣く、アルヴィンが怒る。そういう緊張が、鐘の振動と一緒に肌を刺していた。


今は、ただ鐘が鳴っている。それだけだった。


エステラは窓辺の椅子に腰を下ろし、刺繍枠を膝に置いていた。針を動かす手は穏やかだった。規則正しい運針。公爵令嬢の日常。


ミルフィーユ・エールバッハが男爵家の馬車で領地に下がってから、二週間。宮廷退去と社交界への出入り禁止が正式に確定してから、十日。


学園の廊下からミルフィの名前が消えた。最初の数日は噂の残り香があったが、一週間も経てば話題にする者はいなくなった。宮廷から退場した人間は、話題としての価値も失う。それはこの社会の冷徹な法則だった。


アルヴィンとの婚約は、形式上「維持」の状態にある。だがエステラの意志で見直し協議が始まっており、父ヴィクトール公爵と王家の間で水面下の調整が進んでいた。


表面上の平穏。


エステラは針を止め、窓の外に目をやった。中庭の植え込みが午後の陽光を受けて、柔らかな影を石畳に落としている。


平穏、のはずだった。


政務書類の受け渡しは、回廊の窓際で行われた。


レオンハルトが数枚の書類を手にして立っていた。いつもの場所。いつもの時間。侍女が数歩離れた位置に控え、回廊には他の生徒が疎らに行き交っている。


「公爵家宛ての控え。確認してくれ」


レオンハルトが書類を差し出した。エステラは礼をして受け取る。指先が書類に触れる、その一瞬の距離。


「ありがとうございます、殿下」


書類を受け取る動作を続けながら、レオンハルトが声を落とした。


「一つ、聞いてほしいことがある」


エステラの指先が、書類の上でわずかに止まった。この前置きの温度を、前世の勘が読み取っていた。雑談ではない。


「エールバッハ男爵家の件で、政務書類を処理していて妙なものが出てきた」


「ミルフィーユさんの件は、もう——」


「ミルフィーユ個人の話じゃない」


レオンハルトの声は平坦だった。感情を排した、事実を述べる時の声。


「男爵家に資金を貸し付けていた商家がある。それ自体は珍しくない。下級貴族が商家から借財するのは、この国では日常的な話だ。だが、その商家が男爵家だけでなく、複数の下級貴族家にも同様の貸付を行っていた記録が、政務書類の処理中に出てきた」


エステラは黙って先を待った。


「一つの商家が、複数の男爵家と子爵家に貸付を行い、それぞれの家に対して一定の影響力を持っている。借財関係による間接的な発言力だ。政務補佐として書記官の記録を照会する範囲で確認した」


書類を手渡す動作が終わった。傍目には、いつも通りの政務書類の受け渡しだった。


エステラは受け取った書類を胸に抱え、声を落とした。


「ミルフィーユさんの問題は終わりました。けれど——ミルフィーユさんを動かしていた構造は、終わっていない。そういうことですの?」


レオンハルトが一瞬だけ視線を上げた。


「察しがいいな」


「前の職場で覚えましたの。クレームが終わっても、クレームを入れ知恵した人が残っていたら、また同じことが起きる」


「前の職場」


「十年分の、ですわ」


レオンハルトは追及しなかった。以前もそうだった。エステラの言葉の奥にある不自然さを、この人は拾い上げはするが、無理にこじ開けはしない。


エステラは一つ呼吸を整えた。


「わたくしから調査に動くつもりはございません。殿下のご職務の範囲で明らかになることを、お待ちいたしますわ」


「賢明だな」


「ただ——」


言葉が、思ったよりも自然に口をついて出た。


「この前のこと。庭園でのお言葉、まだ考えておりますの」


レオンハルトの動きが、ほんの一瞬だけ止まった。


庭園。「泣きたいなら、本物の方を頼む」。あの言葉。あの時の声の温度。エステラが「善処いたしますわ」と返した、あの夕暮れ。


レオンハルトは表情を動かさなかった。だが、視線を逸らすまでの間が、いつもより長かった。


「考えているなら、急がなくていい」


それだけ言って、レオンハルトは回廊の先に視線を移した。侍女の位置を確認するような、自然な動作だった。


「商会の名前が特定できた」


声がさらに低くなった。


「エールバッハ商会。ミルフィーユの実父が経営する商会だ。男爵家への養子縁組を仲介した没落貴族の名前も、書記官の記録から出てきた」


エステラの指が、書類を抱える手の上でわずかに動いた。


ミルフィの実父。商家。養子縁組の仲介者。


それはつまり、ミルフィが男爵家に養子に入り、学園に通い、アルヴィンの傍に立ち、涙を武器に宮廷の空気を支配していた——その全てが、個人の野心ではなく、組織的な計画だった可能性を意味していた。


「ミルフィーユさん個人の問題ではなかった」


「そういうことだ」


沈黙が落ちた。回廊を行き交う生徒たちの足音が遠くに聞こえる。


エステラの胸に、二種類の感情が同時に生まれていた。


一つは緊張。終わったはずの問題の根が、思っていたよりもはるかに深かったこと。


もう一つは、奇妙な安堵に似たもの。


今度はわたくしが泣く必要のない戦い。


涙ではなく、事実と構造の問題。エステラの武器——演技、涙、感情制御——が必要とされない種類の戦い。それは脅威であると同時に、嘘泣きを武器にした自分への問いから、一歩離れられることでもあった。


だが同時に、別の懸念が頭をもたげた。


婚約見直し中の公爵令嬢と、第二王子。接触が増えれば、あの時の噂が再燃する。密通。あの冷たい言葉が、再び廊下を這い回る。


「殿下。わたくしたちの接触頻度については——」


「分かっている。政務書類の受け渡し以外の名目は作らない。以前と同じだ」


レオンハルトは踵を返しかけた。そして、数歩進んだところで足を止めた。振り返らない。横顔だけをわずかにこちらに向ける。


「もう一つ。エールバッハ商会は、御用商人の認定を申請している」


エステラの足が止まった。


「王家への納品を担う御用商人になれば、商人用の通用門から王城に出入りできる。商務官の監督下とはいえ、合法的に宮廷へのアクセス権を得ることになる」


レオンハルトはそれだけ言って、回廊の角を曲がり、姿を消した。


エステラは書類を抱えたまま、しばらくその場に立っていた。


御用商人の認定。宮廷への合法的なアクセス。


ミルフィが退場しても、ミルフィを送り込んだ商家は、別の経路で宮廷に手を伸ばそうとしている。


終わっていなかった。


エステラは書類を侍女に預け、自室への歩みを始めた。


足取りは普段と変わらない。背筋は伸びたまま。公爵令嬢としての所作に、一切の乱れはない。


だが胸の内では、二週間の平穏が静かに剥がれ落ちていくのを感じていた。


そして——「庭園でのお言葉」を引きずっている自分がいることにも。


あの言葉を考えているのは合理的な判断ではない。考える必要がない。婚約見直しの協議が進み、商家の工作という新たな問題が浮上し、今はそれどころではない。


それどころではないはずなのに、レオンハルトが「急がなくていい」と言った時の声の温度が、鐘の余韻のように、消えてくれなかった。

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