第10話「同じ土俵」
エステラは父の書斎の扉を叩いた。
アルヴィンが王家会議に婚約破棄提起の撤回を申し出たのは、三日前のことだった。王家会議はこれを受理し、婚約は形式上「維持」の状態に戻った。ミルフィーユ・エールバッハは、王家会議の精査結果を踏まえ、男爵家を通じて宮廷からの退去と社交界への出入り禁止が内定した。
エステラの立場は回復した。公爵令嬢として、王太子の婚約者として。
だが、エステラがこの書斎を訪ねたのは、その「回復した立場」について話すためだった。
「お入り」
ヴィクトール公爵の穏やかな声が、扉越しに届いた。
書斎は整然としていた。壁一面の書架。重厚な机。窓から差し込む午後の光が、インクの匂いが染みついた室内を柔らかく照らしている。
ヴィクトール公爵は机の向こうに座り、書簡の束を脇に寄せてエステラを見た。
「座りなさい」
エステラは椅子に腰を下ろし、背筋を伸ばした。
「お父様。アルヴィン殿下との婚約について、ご相談がございます」
ヴィクトールは黙って先を促した。
「婚約の撤回がなされ、形式上はわたくしの立場は元に戻りました。ですが——この婚約を、このまま維持することが、公爵家にとって最善かどうか。わたくし自身の意志として、見直しをお願いしたいのです」
言葉を選びながら、しかし率直に。
ヴィクトールの表情は変わらなかった。穏やかな目が、娘を静かに見ていた。
「理由を聞こう」
「殿下は、わたくしを守るために婚約を維持されたのではありません。ご自身の判断の誤りが明らかになったから、撤回されたのです。この婚約には、最初から信頼がございませんでした。形だけの関係を続けることが、公爵家の名誉にもわたくし自身にも益になるとは思えません」
沈黙が落ちた。
ヴィクトールはペンを置き、両手を机の上で組んだ。
「お前の意志として、ということだな」
「はい」
「守られるだけでなく、自分で選ぶと」
エステラは頷いた。
ヴィクトールは長い間、何も言わなかった。窓の外で鳥が鳴いた。
「分かった。王家との協議は、私が進める。お前の意志は尊重する」
その声は、公爵当主のものであると同時に、父のものだった。
エステラは深く頭を下げた。
「ありがとうございます、お父様」
学園に戻ったのは、翌日の朝だった。
日常が戻り始めていた。講義。課題。茶会。生徒たちの会話に、ミルフィの名前はもう出てこなかった。男爵家の領地に下がったという話が広まり、それ以上の詮索をする者はいなかった。宮廷から退場した人間は、話題としての価値も失う。
だが、エステラの周囲の空気は、以前と同じではなかった。
ミルフィに同調してエステラを遠巻きにしていた令嬢たち。彼女たちが、手のひらを返すように近づいてきていた。
「エステラ様、先日の審議では大変でしたわね」
「わたくしたち、ずっとエステラ様のことを心配しておりましたの」
エステラは微笑みを返した。完璧な公爵令嬢の微笑み。
だが、それ以上の言葉は交わさなかった。
侍女たちの間では、別の会話が交わされていた。
「あのお嬢様方、手のひらを返されたけれど、公爵家のお嬢様は以前と同じようにはお話しになりませんわね」
「当然でしょう。あの方々、ミルフィーユ様に同調してエステラお嬢様を避けていたのですから。公爵家がそれをお忘れになるはずがないわ」
手のひらを返した令嬢たちが、公爵家からの信頼を取り戻すことはなかった。社交の場で公爵令嬢と親しく話せないということは、社交上の立場の低下を意味する。それは彼女たち自身が選んだ結果だった。
午後。学園の庭園。
エステラが生垣沿いの小径を歩いていると、前方にレオンハルトが立っていた。
政務書類は持っていなかった。珍しいことだった。
エステラは足を止め、礼をした。
「殿下」
「堅いな。二人の時くらい、もう少し力を抜いたらどうだ」
レオンハルトは腕を組み、生垣に背を預けていた。侍女は小径の入口に控えている。庭園の一角で、半私的な距離。
「お力を抜く、と仰られましても。殿下は王族でいらっしゃいますし、わたくしは公爵令嬢ですわ」
「そういうところだ」
レオンハルトは小さく息をついた。
「報告がある。兄上の政務の一部が、正式に俺に移管されることになった」
エステラの足が止まった。
「国王陛下の決定だ。兄上の判断力の問題は、今回の件で表面化した。王太子の地位はそのままだが、行政実務の処理を俺が引き受ける範囲が広がった」
アルヴィンの実権が、さらに削がれた。
エステラは黙って受け止めた。アルヴィンへの同情はなかった。だが、苦いものが胸の底に残った。アルヴィンは根が悪い人間ではなかった。判断が甘く、感情に流されやすいだけだった。それでも、王太子としての責任は免れない。
「それと」
レオンハルトの声が、わずかに柔らかくなった。ほんのわずか。他の誰にも気づかれないほどの変化。
「婚約の件。お前の父上と王家で協議が始まると聞いた」
「ええ。わたくしの意志で、見直しをお願いいたしました」
「そうか」
レオンハルトは腕を組んだまま、空を見上げた。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「俺の前でも、泣いて見せるつもりだったか。最初の頃」
エステラは少し考えた。
嘘をつく相手ではない。最初にそう感じた時のことを思い出した。回廊で、「君の涙、全部嘘だろう?」と問われた時。嘘を認めた時。あの瞬間から、この人物の前では演技の必要がなかった。
「あなたの前では、泣く必要がありませんでしたわ」
レオンハルトが視線を空から下ろし、エステラを見た。
「殿下は最初から、涙ではなく事実を見ていらしたから。涙に意味がない相手に泣いて見せても、無駄ですもの」
「合理的だな」
「ええ。わたくしは合理的ですわ」
沈黙が落ちた。だが、気まずい沈黙ではなかった。
レオンハルトが口を開いた。
「俺の前では泣かなくていい」
一拍の間。
「——泣きたいなら、本物の方を頼む」
エステラは目を見開いた。
その言葉の意味を、一瞬では処理できなかった。合理的な思考が追いつく前に、胸の内側で何かが動いた。演技でも計算でもない、名前のつかない感情。
前世でも今世でも、こんな感覚は初めてだった。
「——善処いたしますわ」
声が少しだけ震えた。演技ではない震え。エステラ自身が驚くほど小さな、しかし確かな震え。
レオンハルトは何も言わなかった。ただ、口の端がわずかに上がった。庭園で初めて目が合った時と同じ、かすかな笑み。だが今度は、その笑みの温度が違っていた。
嘘から始まった関係だった。
嘘泣きを見破られ、嘘と知った上で手を組み、嘘の同盟として共闘した。
その全てを経た上で、今ここにあるものは——嘘ではなかった。
夕刻。自室に戻ったエステラのもとに、侍女が最後の報告を持ってきた。
「ミルフィーユ様は本日、男爵家の馬車で領地にお発ちになったそうです」
エステラは頷いた。
それから、侍女が付け加えた。
「レオンハルト殿下の政務室の文官が申しておりました。ミルフィーユ様の養父であるエールバッハ男爵家の背後に、もともとの商家の——ミルフィーユ様の実父の意図的な動きがあったのではないかと、殿下が調べていらっしゃるそうです」
エステラの手が、茶器の上で止まった。
ミルフィの養子縁組。平民の商家から男爵家へ。その経路は、ミルフィ個人の野心だけでは説明がつかない。
レオンハルトが以前、「あの娘の周辺で不自然な動きがある」と言っていたことを思い出した。あれは、この話だったのかもしれない。
だが、それは今のエステラの問題ではなかった。
エステラは窓辺に立ち、夕暮れの空を見た。
ただ、同じ土俵に立っただけ。
ミルフィが泣くから、泣いた。制度で守れる場面では制度を使った。証拠が必要な場面では証拠を出した。追撃すべきでない場面では何もしなかった。
それだけのことだった。
前世では我慢した。理不尽に頭を下げ、裏で泣いて、翌日また笑顔で窓口に立った。
今世では、同じ手で返した。
それだけの違いだった。
エステラは窓に映る自分の顔を見た。公爵令嬢の顔。前世の記憶を持つ女の顔。そして——嘘から始まった信頼の先に、本物の感情を見つけた人間の顔。
アルヴィンとの婚約の行方はまだ決まっていない。ミルフィの背後にあるものも、まだ見えていない。
だが、今はそれでよかった。
「善処いたしますわ、か」
自分の言葉を小さく繰り返して、エステラは笑った。
演技ではない笑みだった。
(完)
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