王女は名前を隠さなかった
エルナ第三王女がSOLITAIREを訪れたのは、ある秋の午後だった。
彼女は護衛を二名路地の外に置き、平民の服装で扉を開けた。変装は完璧だった。髪を束ね、宝石も外し、姿勢もあえて少し崩している。
しかしカインは、エルナがカウンター前に立ったとき、一瞬だけ目を上げ、それから静かに言った。
「いらっしゃいませ。どのお席がよろしいでしょうか」
エルナは少し観察するようにカインを見てから、窓際の席を指した。
「そちらを」
「かしこまりました。メニューをお持ちします」
メニューが来た。エルナは紅茶を頼んだ。ハーブ入りの、香りの良いもの。
窓の外には石畳と、秋の枯れ葉が数枚。人の往来はほとんどない路地だ。
エルナは普段、一人でいることが難しい。どこに行っても誰かが傍にいる。護衛、侍女、官僚、請願者。王族として生まれた宿命だ。
今日は珍しく外出の許可が出た。ただ散歩をしてくるだけのつもりだったが、路地でSOLITAIREの看板を見つけて、吸い込まれるように入ってきた。
紅茶が来た。華やかな香りが広がった。
エルナはカップを持ち上げ、一口飲んで、目を細めた。美味しかった。城の厨房で出てくる紅茶とは違う、素直な美味しさだった。
しばらくして、エルナは言った。
「あなたは、私が誰かわかりますか」
カインはカウンターから答えた。
「わかりかねます」
「嘘をつくのは得意?」
「あまり得意ではないので、わかることとわからないことを使い分けております」
エルナは少し笑った。城の中では、こんなふうに言い返してくる人間はいない。
「じゃあ正直に言うわ。私はエルナ。第三王女よ」
カインは一拍置いた後、言った。
「エルナ様、ようこそSOLITAIREへ。他の皆様と同様に、ここでは普通のお客様としてお過ごしください」
「普通の客として? 護衛も呼ばなくていい? 私が誰かを報告しなくていい?」
「はい、いずれも不要です。当店ではお客様の情報は外に出ません」
エルナはしばらく黙って、カップを両手で包んだ。
「……おかしな店ね。でも、なんとなくわかる気がする」
「ありがとうございます」
一時間後、エルナは二杯目の紅茶を飲みながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。枯れ葉が風に舞っている。猫が日向に丸まっている。
城の窓から見える景色とは全く違う。でも、これも王都の一部だ。
「カインさん、ひとつ聞いていいですか」
「どうぞ」
「ここに来るお客さんは、どんな気持ちで来るの?」
カインは少し考えてから言った。
「何かを置きに来る方、何かを拾いに来る方、ただいたい方、それぞれです」
「私は……何をしに来たのかしら」
「今日わからなくても、次に来たときにわかることもあります」
エルナはそれを聞いて、少し間を置いてから笑った。
「じゃあ、また来ます」
「お待ちしております」
王女は代金を払い、平民の服装のまま扉を出た。路地の角で護衛が待っていた。
護衛は何も聞かなかった。エルナの顔が、出かける前よりも穏やかだったから。
翌週、エルナはまた来た。
今度は本を一冊持って。
それだけで、十分だった。




