アレンの決断
アレンが「引っ越そうと思う」と言ったのは、十一月の夜だった。
「王都を出るのか」とカインが聞いた。
「いや、王都の中で。今の宿から、ちゃんとした部屋に移ろうと思って」
「三年間、宿にいたのですか」
「ああ。魔王討伐から帰ってきて、そのまま。最初はどこにいるかわからなかったし、ちゃんとした部屋を持つと、ここに根を張る気がして、それが怖かった」
カインはコーヒーを淹れながら聞いていた。
「今は怖くないのですか」
「まだ少しある。でも……相談役の仕事を続けるなら、ちゃんとした場所に住んでいた方が、若い冒険者たちにも示しがつくと思って」
「それだけですか」
アレンは少し間を置いた。
「……たぶん、ここに根を張ることが、怖くなくなってきたんだと思う」
コーヒーが来た。アレンは一口飲んだ。
「ここ、って、王都のことか。それとも」
「両方かな。王都にいていい、ここに来ていい、そういうことが、少しずつ怖くなくなってきた」
カインは静かに言った。
「それは良いことだと思います」
「お前に言われると、本当にそうだな、という気になるから不思議だ」
「なぜですか」
「過剰に喜ばないから。良いことだと思います、って、それだけ言う。それが……ちょうどいい」
カインはカウンターに戻りながら言った。
「過剰に喜ぶと、プレッシャーになることがあるので」
「そういう計算か」
「半分は計算で、半分は性格です」
アレンは笑った。
「引っ越したら、住所を教えてもいいか」
「もちろんです。何かあればご連絡します」
「何もなくてもいいんだが」
「何もなくてもいいです」
アレンはコーヒーを飲み干した。
立ち上がりながら言った。
「なあ、カイン。俺がここに初めて来た日のこと、覚えてるか」
「覚えています」
「どんな顔してた」
カインは少し考えた。
「疲れた顔をしていました。でも、目が生きていました」
アレンは少し驚いた顔をした。
「目が生きていた?」
「諦めていない目でした。それを見て、この方はきっとまた来ると思いました」
アレンはしばらく、カインを見た。
「……一度も言わなかったな、それ」
「言う必要がなかったので」
「今言ったじゃないか」
「今は必要だと思ったので」
アレンは少し、目を細めた。
それから扉を開けて、路地へ出た。
振り返らずに言った。
「引っ越したら、また来る」
「お待ちしています」
夜の路地に、英雄の足音が遠ざかっていった。




