暗殺者は普通のものが食べたい
シルヴィアが扉を開けたのは、深夜零時を少し過ぎた頃だった。
彼女の二つ名は「影の薔薇」。暗殺者ギルド「夜の枝」のギルドマスターであり、王国の裏側で働く者たちの頂点に立つ人物だ。年齢は二十八。容姿は端麗で、普段は貴族の令嬢に変装して活動している。
今夜は仕事帰りだった。仕事の内容は聞かないでほしい。
「夜も営業しているの?」
カウンターのカインが顔を上げた。
「日没から深夜二時まで、夜の部もやっております」
「……珍しいね」
「夜にひとりでいたい方もおられますので」
シルヴィアは黒いフードを外して、窓のない奥の席に座った。
「何か食べられる?」
「軽食でよければ。本日はスープとパン、チーズの盛り合わせがあります」
「全部。それとコーヒー」
しばらくして、食事が運ばれてきた。野菜のスープ、厚く切ったパン、三種のチーズ。普通の食事だった。豪華ではないが、丁寧に作られていることがわかる。
シルヴィアはスプーンでスープをすくって、ゆっくりと食べた。
暗殺者として働くようになって十年。その間、まともな食事を取った記憶がほとんどない。仕事前の緊張、仕事中の集中、仕事後の疲労。どの状態でも、食事は「補給」でしかなかった。
でも今、このスープは美味しかった。
ただの野菜スープなのに、妙に美味しかった。
「……このスープ、誰が作るの」
「私が作っております」
「料理もできるんだ」
「一通りは」
シルヴィアはパンをちぎりながら、何気なく聞いた。
「ここ、安全?」
カインは少し考えてから言った。
「当店の方針として、お客様の情報を外に出すことはしておりません。どなたが来られたかも、何を話されたかも」
「それ、本当に守れる?」
「これまで守ってきておりますので、守れると思います」
シルヴィアは、チーズをひとかけ口に入れながら店主を観察した。嘘をついているかどうかを判断するのは得意だ。十年の経験がある。
──嘘じゃない。
「ひとつだけ聞いていい?」とシルヴィアは言った。
「どうぞ」
「私が誰か、わかる?」
カインはコーヒーをカップに注ぎながら、答えた。
「わかりかねます。お名前を教えていただいていないので」
シルヴィアは少し笑った。「影の薔薇」が笑うことは珍しい。
「賢い答えね」
「いいえ、正直な答えです」
コーヒーが置かれた。シルヴィアはそれを飲みながら、自分でも不思議な感覚を覚えていた。
ここにいると、誰かに見張られている感じがしない。
シルヴィアはいつも誰かに見られている。それが仕事だから、仕方ない。でも今夜は、ただ食事をしている一人の女として、椅子に座っている。
「名前教えようか?」
「お気持ちだけで十分です。必要であれば」
「……シルヴィアよ。仕事の名前じゃなくて、本名」
カインは一秒間、シルヴィアの顔を見た。それから静かに言った。
「シルヴィア様、またいつでもどうぞ」
ただそれだけだった。
職業も、二つ名も、今夜の仕事も聞かれなかった。
支払いを済ませて扉を開けると、夜の路地に風が吹いた。シルヴィアはフードを被り直しながら、一度だけ振り返った。
明かりの灯った丸窓が、暗い路地の中でひとつだけ光っていた。
──居場所、か。
暗殺者は、そんなものとは縁がないと思っていた。
でもたぶん、今夜のあの感覚を、「居場所」と呼ぶんだと、シルヴィアは思った。




