魔術師は孤独の形を知っている
ゼファー・アシュタロスが初めてSOLITAIREに来たのは、夕暮れ時だった。
宮廷魔術師の中でも最高位に位置する「星詠みの賢者」。七王国の魔法理論を書き換えた男として、学術界では神格化に近い扱いを受けている。
しかし今日は、宮廷の会議室から直接逃げてきた。
理由は単純だ。また同じ議論をさせられそうになったからだ。
「先生の新理論は、従来の魔法体系を根本から否定するものでは?」
「先生ならば、この術式の欠点を一瞬で見抜けるでしょう」
「先生、ちょっとよろしいですか、この論文に目を通していただけますか」
先生、先生、先生。
ゼファーは三十四歳だが、二十歳のころから「先生」と呼ばれてきた。もはや自分の名前を友人に呼んでもらった記憶がない。というよりも、友人がいない。
頭が良すぎると、人が離れていく。あるいは、近づいてくる人間が「利用したい人間」だけになる。
そのことを、ゼファーはずっと前から知っていた。知っているのに、どうにもならなかった。
路地に迷い込んで、看板を見た。
「お一人様専用カフェ」。
ゼファーは数秒間その言葉を眺め、扉を開けた。
店内には先客が二名いた。どちらも仕切りの向こうで、静かに座っている。一人は若い男、もう一人は女性の剣士のようだった。互いに干渉していない。
カウンターの男が軽く礼をした。
「いらっしゃいませ。窓際と奥の席が空いております」
「奥を」
席に着いて、メニューを開いた。コーヒーの欄に「本日のブレンド」とある。
「本日のブレンドとは?」
「今朝届いた豆を使ったもので、酸味と苦みのバランスが取れています。飲みやすいかと」
「ではそれを。砂糖は二つ」
コーヒーが来た。ゼファーは一口飲んで、目を細めた。確かに飲みやすい。それ以上でも以下でもない、誠実な味だった。
しばらくして、ゼファーは口を開いた。別に話したいわけではなかったが、静かすぎると頭が余計なことを考えてしまう。
「……この店は、いつからあるんですか」
カインはカウンターから答えた。
「半年ほどです」
「繁盛していますか」
「十分に」
ゼファーは少し間を置いてから、続けた。
「お客は、どんな人が多いですか」
「それはお伝えできません。お客様のことを他の方に話すことはしておりませんので」
ゼファーは、その答えに少しだけ目を見開いた。
「……なるほど。それは合理的だ」
「ありがとうございます」
カインが再び黙った。ゼファーも黙った。
コーヒーを飲みながら、ゼファーは考えていた。自分がなぜここにいるのか。なぜこの店が心地いいのか。
答えは比較的早く出た。
──この男は、私の知識を欲しがっていない。
ゼファーの周囲に来る人間は、必ず何かを求めている。知識、権威、推薦状、サイン、意見。何かを得ようとしてくる。
カインは違った。客として扱っているだけだ。それ以上でも以下でもない。
「一つ聞いていいですか」とゼファーは言った。
「はい」
「あなたは、私が誰か知っていますか」
「知っております。宮廷魔術師のゼファー・アシュタロス様ですね」
「それを知っていて、何も聞かないのですか」
カインはコーヒーカップを磨きながら、静かに答えた。
「お客様のお名前や立場を知ることと、それについて言及することは、別のことです。ここは喫茶店ですので、私の仕事はコーヒーをお出しすることです」
ゼファーは、その言葉を反芻した。
知っている、でも言わない。
それが礼儀であり、この店の本質なのだと、ゼファーはようやく理解した。
帰り際、コートを羽織りながらゼファーは言った。
「また来ます。次は月曜の朝に」
「お待ちしております」
路地を歩きながら、ゼファーは空を見上げた。星がいくつか出ていた。
「星詠みの賢者」は、今夜初めて、誰かに答えを求められることなく星を見た気がした。




