一年半、それから
SOLITAIREが開店して一年半が経った朝、カインはいつもより少しだけ早く豆を挽いた。
特別な日というわけではない。ただ、早く目が覚めた。
ランプに火を入れて、店内を見回した。
棚にはゼファーの本が一冊。アレンが三日かけて読んで、そっと元の場所に戻した本。
窓際の観葉植物は、また少し大きくなった。
六つの席はまだ空で、今日も誰かがここに来る。
カインはコーヒーを一杯、自分のために淹れた。
カウンターの丸椅子に座って、静かに飲んだ。
この一年半のことを、少し考えた。
アレンは今、ギルドの相談役として働き始めた。強制ではなく、自分で決めたことだ。英雄としてではなく、経験者として若い冒険者の話を聞く仕事だ。まだ居心地が悪いと言っていたが、来るたびに少しずつ顔が変わっている。
ミレイアは若い剣士を一人、弟子に取った。負けた相手の、あの十九歳の少女だ。「教えることで、自分が何を大切にしているかわかった」と言っていた。
ゼファーは旅から戻ってきた。日に焼けていて、少しだけ表情が柔らかくなっていた。弟子のファリドの話を、今は少し楽しそうにする。
シルヴィアは今、王都の東区で小さな花屋を始めた。暗殺者が花屋、と聞いたときはカインも少し驚いた。でも「手先が器用なのが、こっちの仕事でも役に立つ」と言っていた。
クレインは来月、定年退役することを話してくれた。「何をするかは決めていない」と言った。カインは「決まったらここで話してください」と言った。クレインは少し困った顔をしたが、「そうする」と言った。
リュートは先月、初めて新しい歌だけのコンサートを開いた。満員だったと、少し照れながら話してくれた。
ドグマは倉庫の仕事が続いている。先月から、花屋のシルヴィアの荷物運びも手伝い始めた。二人の組み合わせは、東区では少し話題になっているらしい。
トールは、先週初めてまともな依頼を完遂したと言って、コーヒーを二杯飲んだ。
エルナは今月から、王都の孤児院の支援活動を始めた。王族として、ではなく、一個人として動き始めた、と言っていた。顔が明るかった。
タリアは来月、新しい馬を迎えると言っていた。名前はまだ決めていないが、黒い馬にするつもりだと言っていた。
カインはコーヒーを飲みながら、一人ひとりのことを思った。
自分がしたことは、コーヒーを淹れることだけだ。
でも、それで良かったと思っている。
誰かの人生を変えようとしたことは一度もない。ただ、ここにいた。ただ、聞いた。ただ、静かな場所であり続けた。
それがどんな意味を持つかは、客それぞれが決めることだ。
カインには関係ない。
でも、やっぱり、関係あると思っている。
矛盾しているが、それでいい。
昼前になって、扉のベルが鳴った。
アレンだった。
「いつものを」
「かしこまりました」
コーヒーを淹れる音が、静かな店内に満ちた。
豆の香りが広がった。
窓際の席で、英雄は、今日も何でもない顔をして座った。
窓の外には、王都の普通の春が広がっていた。
石畳に光が落ちて、誰かの足音が遠くから聞こえてきた。
カインはカップをソーサーに乗せて、静かにテーブルへ置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
それだけだった。
それで十分だった。
SOLITAIREは今日も、路地の角にある。




