剣士は何も語らない
ミレイア・セルバンテスが初めてSOLITAIREの扉を叩いたのは、王都最大の剣術大会の翌日のことだった。
彼女はS級冒険者であり、「紅蓮の剣聖」という二つ名で知られている。昨日の大会では三百名の参加者を全員倒し、七年連続の優勝を果たした。
表彰台では笑顔を見せた。群衆の歓声に応えた。ギルドの仲間と祝杯を上げた。
そして今日の朝、全員が眠っている間に宿を抜け出した。
別に仲間が嫌いなわけじゃない。ただ、「おめでとう」を受け取り続けることが、少し重くなっていた。
おめでとう、また優勝したね。
おめでとう、やっぱりミレイアは最強だね。
おめでとう、次もきっと勝てるよ。
──次も勝たなければならない、という呪いが、祝福の言葉の中に埋め込まれていることに、みんなは気づいていない。
路地を歩いていてSOLITAIREを見つけたのは、偶然だった。「お一人様専用」という文字に、ミレイアは引き寄せられた。
扉を開けると、黒い前掛けの男が軽く頭を下げた。それだけだった。
ミレイアは剣を腰に下げたまま席に着いた。普通の店なら「武器を外してください」と言われるところだが、店主は何も言わなかった。ただ、メニューを置いた。
「紅茶を。ミルクなし、砂糖なしで」
「かしこまりました」
紅茶が来た。綺麗な琥珀色で、香りが鼻をくすぐった。
ミレイアは飲みながら、窓の外を眺めた。石畳に朝の光が落ちている。猫が一匹、のんびりと歩いていた。
三十分ほど経ったとき、店主がカウンターの中から声をかけた。
「おかわりはいかがですか」
それだけだった。「昨日の大会、見ましたよ」も「すごかったですね」もなかった。
ミレイアは少し面食らった。
「……そんなにわからないもの? 私が誰か」
店主は少し間を置いてから、静かに言った。
「わかります。でも、ここではそういうことを話すお店ではないので」
「なんで?」
「お客様がここに来る理由は、たいていそういう話を聞かれたくないからです」
ミレイアは、自分の手を見た。剣を握りすぎて、指の関節が少し固くなっている手。
「……なんで知ってるの」
「経験上、です」
それきり、店主は黙った。ミレイアも黙った。
おかわりの紅茶が静かに置かれた。
一時間ほど経って、ミレイアは財布を取り出した。代金を払いながら、ふと聞いた。
「ここ、また来ていい?」
「もちろんです。お一人様であれば、いつでも」
「私のこと、知ってるのに、なんにも言わないの?」
店主は少し考えるような間を置いた後、こう言った。
「お客様がここに何を置いていかれるか、それは自由です。話したければ話してください。でも、私から何かを引き出そうとするつもりはありません」
ミレイアは、何も言わなかった。
扉を開けて出ようとしたとき、振り返りざまに言った。
「名前は? 店主さんの」
「カイン、と申します」
「カイン。……また来る」
彼女はそのまま路地に出た。朝の光の中で、ミレイアはふと気づいた。
胸の中の重さが、少しだけ軽くなっていた。
誰かと話したわけじゃない。何かが解決したわけじゃない。
ただ、一時間、何者でもない自分として座っていただけなのに。
七年間、優勝し続けてきた剣聖は、路地の角で立ち止まり、空を仰いだ。
青かった。何も要求してこない、ただの空だった。




