影の薔薇、最後の仕事
シルヴィアが来たのは、深夜の三時だった。
いつもより遅い。扉を叩く音が、いつもより静かだった。
カインは夜の部の閉店作業をしていたが、扉を開けた。
シルヴィアは、いつもと違った。黒いフードを被っていなかった。外套も着ていなかった。薄い上着一枚で、右腕に包帯が巻かれていた。
「……入れますか」
「どうぞ」
シルヴィアは奥の席に座った。カインは何も聞かずに湯を沸かし始めた。
「今夜で、辞めました」
カインは湯を沸かしながら聞いていた。
「ギルドを。暗殺の仕事を。全部」
沈黙。
「後継者には半年前から引き継いでいたので、問題はない。ギルドの運営は続く。ただ私は、もう関わらない」
お湯が沸いた。カインはコーヒーではなく、ハーブティーを選んだ。理由は自分でもよくわからなかった。ただ、今夜の彼女にはそちらが合う気がした。
「……コーヒーじゃないの」
「今夜はこちらの方が良いかと思いまして」
シルヴィアはカップを受け取った。香りを嗅いだ。ラベンダーと何かが混ざった、穏やかな匂いだった。
「……正解かもしれない」
一口飲んだ。目を閉じた。
「十年間、人を殺してきた。国のために、依頼のために、必要だったから。一度も迷わなかった。でも……去年から、少しずつわからなくなってきた」
カインは黙っていた。
「必要なことをしているのか、それとも、それしかできないからしているのか。どちらかわからなくなった」
「それに気づいたのは、いつですか」
シルヴィアは少し考えた。
「……ここに来るようになってから、かもしれない。ここに来ると、普通の食事が美味しかった。それが、なんか、ずっと引っかかってた」
カインは何も言わなかった。
「普通の食事が美味しいと感じる自分と、人を殺す仕事をしている自分が、同じ人間だということが、だんだん、しっくりこなくなってきた」
「……それで、辞めることにしたのですか」
「理由の一つ、かな」
シルヴィアはハーブティーを飲んだ。
「これから、どうするかは、まだわからない。でも、今夜は……ここに来たかった」
「ここにいていいです」
シルヴィアは目を上げた。
カインが「いていいです」と言うのは、珍しかった。いつもは「お待ちしております」とか「ごゆっくりどうぞ」という言い方をする。
「……今夜だけ特別?」
「今夜だけ特別です」
シルヴィアは少しの間、カインを見た。
それから、また目を閉じて、ハーブティーを飲んだ。
結局、シルヴィアは明け方まで座っていた。
カインは一度も眠そうな顔を見せなかった。カップが空になるたびに、静かに新しいものを出した。
朝の光が路地に差し込む頃、シルヴィアは立ち上がった。
「いくら請求する?」
「今夜は結構です」
「なんで」
「たまに、そういうこともあります」
シルヴィアは財布を取り出した。カインは受け取らなかった。
「……また来る」
「お待ちしております」
扉を開けると、朝の空気が入ってきた。冷たかったが、清かった。
シルヴィアは振り返らずに、路地を歩いていった。
その背中は、来たときより少し軽そうだった。




