王女の縁談
エルナがSOLITAIREに駆け込んできたのは、珍しいことに走り込んでくる形だった。
いつもと違う。平民の変装もしていない。侍女服のような簡素な装いだが、宝石の跡がある首元に、ただならぬ急ぎ足だった。
扉を開けるなり、エルナは言った。
「かくまってください」
カインは一拍置いた。
「かしこまりました。奥の席へどうぞ」
エルナは息を整えながら奥の席に座った。カインはすぐにカーテンを少し引いて、窓からの視線を遮った。
しばらくして、エルナが口を開いた。
「縁談が来ました。隣国の第二王子で、来週には正式な申し込みが来ると言われて……逃げてきました」
「そうですか」
「父は乗り気です。政治的な意味では理にかなっているらしい。でも私は……」
「はい」
「会ったこともない人と結婚するのが、怖いんじゃないんです。それはわかってました、生まれたときから」
「では」
「ただ、今日決めるのが、嫌だったんです。誰も私の話を聞かずに、全部決まっていくのが」
エルナはテーブルに肘をついた。王族としてあるまじき姿勢だったが、カインは何も言わなかった。
「話を聞いてほしかったわけでもない。ただ……少しだけ、一人になりたかった」
「紅茶をお持ちします」
「ください」
紅茶が来た。秋の終わりのブレンドで、少し甘い香りがした。
エルナは両手でカップを包んで、目を閉じた。
一時間ほどして、エルナは目を開けた。
「……少し落ち着きました」
「それは良かったです」
「カイン、一つだけ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたは、誰かと結婚したことはありますか」
カインは少し間を置いた。それから答えた。
「ありません」
「したいと思ったことは?」
「…………考えたことは、あります」
エルナは少し驚いて、カインを見た。珍しく個人的な答えだった。
「どうして、しなかったの」
「仕事の性質上、難しかった時期が続きました。今は……今は、まあ、ここがあるので」
エルナはそれを聞いて、静かに笑った。
「ここがあるから、いい?」
「今は、そう思っています」
エルナは紅茶を飲み干した。
「……私も、いつかそう思えるかしら。どこかがあるから、いい、って」
「思えると思います」
「根拠は?」
「エルナ様は、ここに来るたびに、少し顔が変わっています。それが根拠と言えるかどうかはわかりませんが」
エルナはしばらくカインを見た。
「……ありがとう」
王女は立ち上がり、裾を整えた。扉を開ける前に、一度だけ振り返った。
「縁談、ちゃんと話を聞いてもらってから返事をします」
「それが良いと思います」
エルナは扉を開けて、夕暮れの路地へ出た。
護衛が慌てて駆け寄ってきた。王女はそれを手で制して、自分で歩いた。
歩き方が、来たときより、少しだけ落ち着いていた。




