詩人は本当の歌を知っている
リュート・カナリアという名前は、王都では知らない者がいない。
二十六歳の吟遊詩人。三年前に発表した叙事詩「魔王討伐の歌」が七王国で爆発的に広まり、今では宮廷の晩餐会から街の酒場まで、どこへ行っても引っ張りだこだ。声は澄んでいて、指先は正確で、観客を泣かせる技術は本物だった。
ただし、本人は今、ひどく憂鬱だった。
「……また『魔王討伐の歌』を歌えと言われた」
SOLITAIREの窓際の席で、リュートはコーヒーに砂糖を三つ入れながら呟いた。
カインはカウンターで布巾を折りたたみながら、黙って聞いていた。
「三年間、ずっと同じ歌だ。宴会でも、祭りでも、王宮でも。あの歌が一番受けるから、あの歌を歌えと言われる。俺にはあの歌しかないと、みんな思ってる」
「他にも歌はあるのですか」
「あるよ。百曲以上ある。でも誰も聞きたがらない」
リュートはスプーンでコーヒーをゆっくりかき混ぜた。
「最近書いた歌がある。戦争で死んだ一般兵の話。英雄じゃなくて、名前も残らない普通の兵士の歌。俺はこれが一番好きな曲なんだが……興行主に見せたら、『暗い、受けない、やめろ』と言われた」
カインは何も言わなかった。
リュートは続けた。
「英雄の歌は売れる。民衆は勝利を祝いたいから。俺もそれはわかってる。でも……」
言葉が途切れた。
「でも?」
カインが静かに促した。珍しいことだった。
リュートは少し驚いて、カインを見た。
「……歌いたい歌が歌えない詩人は、詩人と言えるのかと思って」
カインはコーヒーを一杯、カウンターに置いた。おかわりだった。注文していないが、タイミングが正確だった。
「その、名前の残らない兵士の歌というのは、どんな歌ですか」
リュートは少し間を置いた。
「……聞きたいの?」
「差し支えなければ」
リュートはカップを置いて、腰に下げていた小さなリュートを取り出した。店の中で演奏するのは初めてだ。弾いてもいいか聞こうとしたが、カインは何も言わなかった。それを許可と受け取った。
静かな店内に、低い旋律が流れ出した。
歌詞はシンプルだった。ある若い兵士が、最終決戦の前夜に故郷へ手紙を書く話。英雄の活躍は一切出てこない。ただ、一人の人間が、明日死ぬかもしれないと思いながら、母親に「元気でいてくれ」と書く、それだけの歌だった。
リュートが歌い終えると、店内には沈黙が戻った。
カインは何も言わなかった。
しばらくして、リュートが言った。
「……どうだった」
「良い歌だと思いました」
「具体的には?」
「英雄の歌は、聴く人間に高揚感を与えます。あなたの歌は、聴く人間に自分の話だと思わせる。それは違う種類の力です」
リュートは、その言葉をゆっくりと飲み込んだ。
「……売れないけどな」
「売れることと、良いことは、別の話ですから」
リュートはコーヒーを飲み干した。
帰り際、リュートはリュートをケースにしまいながら言った。
「また歌っていい? ここで」
「他のお客様の迷惑にならない音量であれば」
「小さく弾く。練習みたいな感じで」
「それであれば」
リュートは扉を開けながら、少し笑った。
王都で一番有名な詩人が、初めて「本当の客」として、路地に出ていった。
翌日から、SOLITAIREの夕方には、時折低い弦の音が流れるようになった。




