看板と、最初の客
王都の外縁部、石畳が少し欠けた路地の角。
その店は、ある朝突然そこにあった。
「お一人様専用カフェ SOLITAIRE」
手書きの小さな看板。扉は深い焦げ茶色の木製で、ガラスの丸窓がひとつだけついている。窓の内側には小さな蝋燭が灯っていた。
王都の人々は最初、その店の存在に気づかなかった。目立たないように、というよりも、目立つことを最初から放棄したような佇まいだった。
扉の脇に貼られた紙には、こう書かれていた。
〈当店のご案内〉
・お一人様専用です。相席はできません。
・他のお客様への話しかけはご遠慮ください。
・店主からも、不要な声かけはいたしません。
・居ていただくだけで構いません。
・「もう出ます」と言わなくても大丈夫です。
王都の喧噪から三本路地を入った場所にその店があることを、最初に知ったのは、アレン・クロスという男だった。
アレンは、世界を救った英雄だ。
三年前、魔王討伐の勇者パーティを率いて最終決戦を制し、七王国の連名で感謝状を受け取った男。王都の広場には銅像まで建っている。
しかし今日、アレンはその銅像を見たくなくて路地裏を歩いていた。
繁華街を歩けば肩を叩かれる。酒場に入れば英雄の武勇伝を語らされる。宿に泊まればサインを求められる。
疲れた。
ただそれだけだった。疲れた、ということすら、英雄らしくない感情だと思って、アレンはひとりで抱えていた。
その日の昼過ぎ、迷い込むように路地を曲がったところで、アレンはSOLITAIREの看板を見つけた。
扉を開けると、ベルが小さく鳴った。
店内は、思っていたより広かった。
六つのテーブルがあった。どれも一人用で、隣のテーブルとの間に腰の高さほどの仕切りが設けられてい
る。窓際の席には小さな観葉植物。照明は暖かみのある蝋燭型のランプ。静かなハープの音楽が、空気に溶けるくらいの音量で流れていた。
カウンターの奥に、男が立っていた。
三十代ほどに見える。黒い前掛けに、白いシャツ。髪は短く整えられ、表情は──特になかった。無愛想というのとも違う。ただ、過剰に何かを押しつけてこない顔だった。
「いらっしゃいませ」
男は言った。それだけだった。
アレンは少し戸惑いながら、窓際の席に座った。すぐにメニューが置かれた。コーヒー、紅茶、何種類かの軽食。値段は宿場の食堂と変わらない。
「コーヒーを」
「かしこまりました」
それ以上の会話はなかった。
しばらくして、コーヒーが運ばれてきた。陶器のカップに、濃い焦げ茶色の液体。湯気がゆっくりと立ち上る。
アレンは一口飲んで、息を吐いた。
苦かった。でも、嫌な苦さじゃなかった。
誰も話しかけてこない。誰もアレンを見ていない。隣の席には誰もいない。店主はカウンターで何かを磨いている。
世界を救った英雄は、ただのひとりの客として、そこに座っていた。
一時間ほど経って、アレンは立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
「ありがとうございました」
店主はそれだけ言って、アレンの目を一秒だけ見た後、また視線を手元のカップへ戻した。
翌日、アレンはまた来た。
翌々日も来た。
三日目に、アレンはようやく気づいた。ここに来ると、なぜか少し楽になる、と。
理由はわからなかった。コーヒーが美味いから、かもしれない。静かだから、かもしれない。
でも、たぶん、本当の理由は別のところにあった。
──ここでは、英雄じゃなくていい。
アレンはその理由を、三日間かけてようやく言語化した。
そして四日目、コーヒーを飲みながら窓の外を見ていると、店主が静かに近づいてきて、カップを新しいものと交換した。
アレンは礼を言わなかった。
店主も、何も言わなかった。
それが、SOLITAIREという店の、静かな始まりだった。




