1. 物語はここで始まった
幼いころ、世界は広く 自分はなんでもなれると信じていた
村を離れ、王国へ行き、騎士になり、商人になり いつか名を残す人間にだってなれると
だが現実は、祈りに似ている。
願っただけでは届かず、歩き続けた者にだけ、ようやく触れさせてくれる
ノブレス・オブリージュ
【高き場所に立つ者ほど、背負うものは重く 義務が伴う】 その言葉を口にできるのは、自らの痛みを知る者だけだと
今なら、そう思う
さて、これは誰も知らない物語 古き友の冒険譚である
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ここは、【ランドバーグ】
かつて始まり地と呼ばれ、今は最果てと呼ばれる場所で
一人の少年が、丘の頂にある粗末な墓標の前にいた
雨は、静かに大地を打ち
霧が丘を包み込み、世界の輪郭を淡く溶かしていく
彼は、濡れた髪を払いもせず、ただ無言で立ち尽くしている
手には、小さな赤い花
野に咲く名もなきそれを、丁寧に墓標の根元へと置いた
少年の名はノーマン
年は16歳
痩せた体に似合わぬ鋭い眼差し
胸元で揺れる碧い宝石のペンダントだけが、過去と彼を繋いでいた
かつて、祖母が
「これはね?お前が迷った時に進むべき道へ導く『お守り』だ。大事にするんだよ。」
として渡してくれたものだった
風が吹くたび、雨粒が肌を叩く
冷たい
けれど、それ以上に胸の奥が痛かった
「……どうして、俺だけが」
誰に向けたわけでもない呟きは、雨にかき消されていった
三ヶ月前、彼の村は焼かれた
月明かりのない夜、火を吐く魔物たちが現れた
逃げ惑う人々の叫び 炎に包まれる家
日常は音もなく、赤と黒に塗り替えられた
優しかった両親は、彼を守るために身を犠牲にし
振り返った時にはもう、炎の向こう側にいた
親しい友人や面倒を見てくれた近所の人たちも
魔物の牙と爪に切り刻まれていった
いつも通りの日常
遊び、食べ、父の農業を手伝い、
寝る前には母が本を読んでくれた
ほんの数時間前まで、確かにあったその景色が
すべて、瞬く間に地獄へと変わったしまった
「うわぁああああ!!
父さん!! 母さん!! みんな!!」
燃える我が家を直視し、
人が焼ける匂いを嗅いでしまったノーマンは嘔吐した
——人の死の匂いを、あの夜、初めて知った
目の前には、炎を吐く魔物
それでも、体は動かなかった
(あぁ……死ぬんだ)
そう思い、目を閉じた瞬間
ズザン
乾いた音が、雨音を切り裂いた
次の瞬間、魔物の首が血を噴きながら足元に転がっていた
剣を振るった姿すら、ノーマンの目には映らなかった
彼は、生き残った――いや、助けられたのだ
黒いマントを肩に掛け、背丈を優に超える大剣を携えた剣士
木の棒に緑の宝石のような物をつけ杖を持ち、同じく黒いマントに身を包んだ魔導士
「この村にいる魔物と排除と、生存者の救出を始める」
剣士はそう言い、魔導士は複数人に分裂して燃える家々を鎮火し生存者を探した
「この先の道を抜ければ安全地だ。その少年を連れて走れ!」
魔導士は頷き、ノーマンを抱えて駆け出した
意識が朦朧とする中、彼が見たのは果敢に魔物へ立ち向かう二人の英雄と、
燃え崩れる村の姿だった
朝方
魔導士と共に村へ戻った時、白く灰色の煙がそこら中に立ち昇り、元あった家々は黒い塊と化していた
村の一角では、布に包まれた幾つもの塊が、火にくべられていた
遺体だと理解しても、ノーマンは目を背けなかった
背けてはいけない気がした
彼は幸いにも、擦り傷と軽い火傷で済んだ
運がよかったかもしれない――だが、その運が憎かった
ノーマンは、雨の中でゆっくりと顔を上げる
濡れた黒髪の隙間から、決意の光が覗いた
「行かなきゃ。」
立ち上がり、背負っていた小さな鞄を締め直す
その中には、干し肉と水筒、助けてくれた魔導士と剣士がくれた路銀、
腰にある短剣
頼りない荷物達
だが、それでも彼は歩き出す
丘の向こう、霧の中にぼんやりと見える街の灯
そこに、ギルドがあるという
仕事を求め、
力を求め、
そして、生きる理由を探すために
雨は、まだ降り続いていた
だが、その足取りに迷いはない
夜明けのない灰色の空の下、彼の旅は静かに始まった
しばらくして、視界を覆う霧の向こうに、ぼんやりと木々の影が見えた
そこを抜ければ、小さな街道に出る
村の人々が、よく物資を運んでいた往来の道だ
けれど、今は誰も通らない
「さてと」
そう口に出した、その時
地面に、小さな獣の足跡が泥の上に刻まれていた
その中に混ざる、ひとつだけ大きな足跡
(何かいる)
直感的に、ノーマンは足を止め 短剣の柄に、手を置いた
背筋を走る冷気
それは、ただの雨の寒さではない
カサリ
雨音に紛れ、
茂みが揺れた
(まずい)
そう思った時には――もう遅かった
炎を纏った獣が、霧の奥から姿を現した
それだけで、空気が変わる
雨に濡れた草の匂いに、焦げた臭いが混じった
まだ距離はある
それなのに、息を吸うだけで喉が焼けるようだった
ノーマンは短剣を構えようとして、気づく
(体が思うように動かない!)
腕が、鉛を詰め込まれたみたいに鈍かった
逃げなければ――そう頭では分かっているのに、足が地面に縫い止められたように動かない
獣が低く唸る
次の瞬間、炎が爆ぜた
(来る!)
考えた記憶は、たぶんない。気づいたら、地面が近く
口の中が泥だらけになっていた
(クソっ...しくじった!)
頬を掠めた熱が、皮膚を焼き
視界が一瞬、白く滲む
「……っ」
声にならない息が漏れた
立ち上がろうとして、足を取られる
雨で緩んだ地面と、燃え残った草が絡みついてくる
そのときだった。獣は彼の目前にまで近づく
(速い!?)
心臓が、嫌な音を立てる
背を向けたら終わりだと、本能が叫んでいた
(避けれるか? いや、無理だ)
歯を食いしばり、短剣を握り直し
獣の死角に踏み込む 狙ったのは喉...のはずだった
だが、刃は硬い感触に弾かれる
ガン、と嫌な衝撃が手首に走り、短剣がぶれた
(死ぬ)
そう思った、その瞬間
獣の体勢が、崩れた
燃え残った草に、後脚を取られたのだ
ほんの一瞬
本当に、偶然としか言えない一瞬
ノーマンは、ほとんど無意識で腕を突き出していた
狙いも、覚悟もない
ただ、前にあったものへ
短剣が、温かいものを貫いた
ぐらりと重みがのしかかり、獣の体が崩れ落ちる
泥と血が跳ね、ノーマンは後ろへ倒れ込んだ
雨音だけが、残った
「……はぁ……はぁ……」
勝った 勝てた!……はずなのに
だが、膝は震え、指は短剣を握ったまま離れない
胸の奥が、まだ焼け付くように熱い
(本当に、終わったのか?)
霧の向こうを睨む
耳を澄まし、息を殺す
しばらくして、ようやく理解した
もう、動く気配はない
ノーマンはその場に膝をつき、気持ちを落ち着かせるために荒く息を吐いた
勝利の実感は感じない代わりに、胃の奥がひっくり返るような感覚だけが残って
呼吸の仕方を、しばらく思い出せなかった
倒れた獣は、彼よりも一回り大きかった
四肢は太く、胴は樽のように厚い
炎を吐くための喉袋は裂け、そこから血と煤が混じった液体が流れ出している
(……こんなのを、俺が?)
短剣を握る手が、遅れて震え出した
力が抜け、刃先が泥に落ちる
そのときだった
――背後
雨音とは違う、わずかな擦過音
草が、踏みしめられるような気配
ノーマンは息を止めた
(もう一体いるのか!)
心臓が、嫌な跳ね方をする
今度こそ逃げ場はない――そう思い、ゆっくりと振り返る
だが、そこには何もなかった
霧
雨に濡れた草
風に揺れる木の影
耳鳴りのような鼓動が、やけに大きく響く
(違った)
気配の正体に、気づいてしまった
倒れた獣の体から、炎が消えかける音
雨に打たれ、じゅう、と小さく燻る音
それを足音だと、勘違いしたのだ
ノーマンはその場にしゃがみ込み、両手で顔を覆った
「……はは」
乾いた笑いが、喉から漏れた
笑うつもりなんてなかったのに
(怖かった...)
今さら、全身が冷えていく
勝った実感はない
ただ、生き残っただけだ
――生き残った
その言葉が、胸の奥に落ちた
(……なら)
ノーマンは、立ち上がる
震える足で、獣の死体に近づいた
皮は硬いが、剥げないほどではない
牙は鋭く、爪も欠けていない
(売れるはずだ)
彼は歯を食いしばり、作業を始めた
血の匂いが、雨で薄まる
手は汚れ、服はさらに重くなる
ようやく必要な分を袋に詰め終えた頃、
霧の向こうから、かすかな鐘音が届いた
低く、遠く
だが、確かに人の営みを告げる音
ノーマンは顔を上げた
(街だ)
袋を背負い直し、短剣を拭う
刃に映る自分の顔は、ひどく疲れていた
「……行こう」
誰に言うでもなく、そう呟く
もう一度だけ、獣の亡骸を振り返り ノーマンは、霧の奥へと歩き出した
鐘の音を、道標にして




