水晶の川
気づくと、明るい森のなかで横たわってた。
しばらく動かないで、じっとそのままで呆然としていた。
かすかな風にそよぐ樹々の梢と、うす青い空が見える。
さわさわと樹々のつぶやきが耳をくすぐった。
あれはきっとボクのことをひそひそ話し合っているんだな。
しばらくすると、ボクが押しつぶしている丈の短い草と、その青くさい香りが、ふわふわと漂ってきた。
徐々に、自分の周りの環境が、はっきりと意識できるようになってくる。
秋に入りかけたくらいの気候の空気は気持ちいい。歩くとちょっと汗ばむかもしれない。
見たことのない、茶色ですべすべの肌の樹々の疎林のなか。
すべてがあまりに急すぎる。脳がついていけない。
でもしばらくこうして横になっていると、じわじわと自分の置かれた状況が呑み込めてきた。あんまり非現実的すぎて、理解するのを拒否しようとする体。
ボクはちょっと身じろぎした。
どうしてかわからないけど、ボクは泣いてた。悲しかったからじゃないよ。
なんか森のなかの木漏れ日が、あったかくて。
横になったまま考えた。
ボクは、どうやら車に轢かれて死んだらしい。なんてつまらない死に方!
…つまり、状況としては、女装した男子大学生が道に飛び出して、交通事故にあったってことになるよね。
なんか恥ずかしくって嫌な汗がでてきた。
テレビや新聞のいいネタにされて、バカなやつってひとときの憐みと嘲笑を提供しちゃうやつ?…というか、残された家族とかは、どう思うんだろう。悲しいというより、とんでもない恥をかかせやがってって思われそう…
もし追いかけられて逃げてたということが明らかにならなければ、自殺ということで処理されちゃうんだろうか。その可能性も高いよなあ。
ごめんなさい、両親と妹よ。家族にこんな変態がいてごめんね。きもいよね。
でも、そうか、もう会えないのか…
学校の同級生たちも、二度と会えない。高校の友だちとも、もう一緒にしゃべったり、遊んだりも、できないのか。
ヒロユキくんとも、もう会えないのか。せめて、ひとことでもお別れのあいさつしたかったな。ううん、遠くからでもいいから、最後に一目会いたかった。
なんか考えだしたら、さみしくってたまらなくなってきた。
アニメなんかで見る転生ものって、みんな元いた現生になんの未練もなさげな感じだったけど、ボクは無理だよ。さみしいよ。会いたいよ。
気づいたら、ぐすぐす泣いてた。
なんでこんなことになっちゃったんだろ。
ここがどこか全然わからないけど、知ってる人なんているわけない、まったくはじめての、見知らぬ世界だ。
どうやらこの世界でちゃんと「生きて」いるみたいだけど、ちゃんとこの先も生き続けていけるのか、そもそもどんな世界なのかもわからないし。
新しい世界への希望なんてかけらもないじゃん。絶望しかないじゃん。自分の家に帰りたいよ…
そんなことを考えてたら、心細く、寒くなってきた。
だめだ、こんな状況で、乙女モードで泣いてばっかじゃ、どうにもならない。
なんとかしないと。
ところで、さっきからモードって言ってるけど、服装や音階のことじゃないよ?
ボクの心の中にいくつかある、ありようのこと。わかってもらえるかなあ?
乙女モードは、泣き虫だし、感情ばかり先走る。
女の子がみんなそうだって意味じゃない。
多分、幼いころは、男の子モードも乙女モードも一緒くたで、はっきりと分かれていないんだと思う。
大きくなってくると、身体と相性のいいモード、ボクの場合は男の子モードが中心になってきて、次第に乙女モードは外に出てこなくなってくる。周囲にあわせて生活する上で邪魔になってきて、心の奥底から出てこないように抑えつけるようになるのかもしれない。
でも、消えちゃうわけじゃないんだ。ボクのなかで、恥ずかしがって隠れてるだけ。
女の子の恰好をするようになって、乙女モードがよく表面に出てくるようになったのは、ここ数年の話。それでも普段は、学校などで男の子モードのほうがずっと長時間現れていることが多い。
表面に出てる時間分だけ歳をとるとしたら、多分、乙女モードはまだ年齢がずっと若いんだと思う。子どもなんだ。
だから、怖がりだし、すぐ泣くし、幼い。
長いこと邪魔もの扱い、やっかいもの扱いされて、抑えつけられてたとしたら、かわいそうだよね…
二重人格とか、そんなんじゃないよ。誰の心のなかにも、多分あるもの。
どっちもボク。幼くて、かわいいものが好きで、傷つきやすい乙女モードは、年上の男の子が守ってあげなくちゃいけないんだ。
身体を起こしてみる。どこも痛くはない。立ち上がって見下ろすと、やっぱり追いかけられた時のままの女の子の恰好だ。
あのなんか腹立つ女神さま、ボクを女の子と勘違いしてたみたいだったけど、なんか死亡者リストみたいなものはなかったんだろうか? それとも別のことをやってて、注意散漫になってたのか? だめじゃん! 管理が全然できてないじゃん!
「生き延びるための力」をあげるとか言ってたような。特に何も感じないし、強くなった気もしないけど…
というか、なんかやばい世界とも言ってなかったっけ?
きょろきょろ周りを見回してみたけど、普通に静かな森。風のざわめきだけで、鳥の声もしない。
ちょっと、うすら怖い気分になってきた。
これからどうしよう…
足元に、ボクの緑のリュックが転がってた。
拾い上げて中を確認してみた。ハンカチ、ティッシュ、スマホ、イヤホン、サイフ、カード入れ、お化粧直しの小物の入ったポーチ、小さなチョコと飴数個に歯磨きガムの入ったお菓子袋、メモ帳とペン、ねこ模様の折りたたみ傘、飲みかけの日本茶の500mlペットボトル。
スマホは、電源はまだ半分くらい残ってたけれど、当然どこにもつながりはしない。多分この先、充電なんてできないだろう。
とりあえず、お茶を一口飲んだ。
ちょっとだけ気分がよくなったので、リュックを背負い、スカートについた草を払って、もう一度周りを見回す。
風の音。
…だけじゃない。
水の音? 川の流れる音かな…
水の音のほうに、ゆっくり歩を進めてみた。
ちゃんと歩ける。
どこも痛くない。大丈夫、車にぶつかった時の影響みたいなものは全然ない。
草を踏みしめる音がやたらと大きく森に響いているように感じられて、ボクは思わず首をすくめた。
すぐに前方が明るくなってきて、ぱっと開け、白っぽいきれいな石の多い川原に出た。
きれいな川だなあ。すごくいいところだ。
上流の方を見ると、緑に包まれ、ところどころに白い岩峰が顔を出す山並みが連なっている。
緑がかった青色をした透き通る水のほとりにしゃがみこんで、ちょっとためらったあと、両手で水をすくって思いっきり顔を洗った。絶対、ひどい顔してると思ったから。
冷たくて気持ちいい。
川の水底の砂は白っぽく、金色の粒がいっぱい混じっていて、日の光に反射してきらきらしてる。
うん、これは残念だけど金とかじゃないよ、雲母の粒だ。雲母は薄くはがれるように割れるから、水で流されやすいんだ。
ということは、このあたりは花崗岩なんだな。そういうのは、普通に元の世界とおんなじなんだなあって思った。地質まで全然違ってたら、さすがにやばいもんね。
足元の石が強くきらっと輝くのに、視線が引き寄せられる。
拾い上げてみると、こぶし大の石に開いた小さな穴の中に、透明で幾何学的な直線が見えた。水晶だ!
石を手に包みこむように持って、手近な大岩にぶつけてみた。ぱりっと割れて、うまいこと晶洞の中の小指の先ほどの結晶が露わになった。透明度が高く、形も整っていて、とてもきれい。
根元には金色の雲母の薄い花びらが咲いていて、それがまた対照的に水晶を引き立ててる。その石英の結晶はきらきら輝いていて、直線的な形はとてもこの世の物とは思えない。
「わあ」
笑みがこぼれた。やった! うれしい!
なんだかすごい久々に、晴れやかな心境になれた気がする。この小さな水晶に共鳴するかのように、ボクの心も透き通っていくような気分。
なにものともしれない世界で初めて出会った、よく見知った姿だ。ボクはなめらかな水晶の表面を人差し指でそっとなぞってみた。結晶はこの世界の調和の表象だ。混沌は人を脅かし、調和は人の心を落ち着かせてくれる。
もしかしたら、この世界もそんなに悪くないのかもしれない、なんてつい思っちゃった。