ボクの、一番の、願い
目を開けると、まばゆい光が脳髄を刺激して爆発した。
あわてて両手で目元を隠した。
手? ボクの手? っていうか、今考えてるのはだれ? ボク?
しばらく何がなんだかわからなかった。ここはどこ? ここはどこか考えてるのは、一体誰? 「ボク」って一体なんだ?
「ああ、やっと起きたの?」
声が聞こえた。目を細めて、腕の間から、声のするほうを見る。最初は光しかなかった。しばらくすると、ピントがあってくるように、いろいろ見えてきた。
どこかの事務室みたいだ。簡素で、ごちゃごちゃしたものなんて皆無。というか、すべてが明るく光り輝いている。
机の向こうに、こちらを真正面にして女性がひとり座っている。机に向かって何か書いているようだ。
ボクは、床の上にじかに横たわっていた。
だんだん手足の感覚がはっきりして、少しずつ、体中の神経と血管が目を覚ますのを感じる。起き上がれそう。
上体を起こして、きょろきょろと周りを見渡す。地味なスーツ姿でメガネをかけた女の人。メガネが光って、目が見えない。業務用っぽい机と、その上に置かれたいくつかの書類ファイル。ちょっと離れてソファがひとつ。それ以外は何もない真っ白な部屋。窓もなにもない。
ドアがひとつだけあるけど、まるで壁に描かれた絵みたいだ。
ここは一体どこなんだろう。
そうだ、ボクはボクだった。思い出してきた。
思い出した? そうだ、思い出した。ボクは…ボクはバイトの帰り道、追いかけられて、恐怖にかられて、走って逃げて…挙句の果てに、なんかにぶつかったような?
思わず、自分の身体を見下ろし、腕や足に触れてみる。うん、ある。ボクの身体だ。多分。
「記憶は戻ったかしら?」
「ええと…」
口ごもる。女の人は、ちょっといらつくように言う。
「あのね、さっさと説明するわね。あなたは死にました。道路に飛び出して、車に轢かれたの。考えなしのバカなねこみたいに。残念だったわね」
ひどい。怒りなんて感じなかったけど、ただ他人事のように、そんな言い方はないのでは?って思った。
でも突っ込んでもなんか無視されそうだし、やめとこう。
「…死んじゃったんですか。ボク」
「そう言ったでしょ。」
机の上の時計?をちらっと見て、さらに早口で言葉をつづけた。
「で、あなたは人としての悦びも全然知らず死んでしまいましたので、別の人生が贈られます。ちょっときついかもしれない世界だけど、もう一度チャンスが与えられることになりました。これは大サービスなのよ。ほかの人はこんなチャンスなんてないから」
「えっと。それは転生しますってことですか」
「そう。生きやすいように、言葉の理解もできるようにしてあげます。死んだ時の姿のまま、その世界に送られることになります」
「はい」
返事はしたけれど、事務的な口調でしゃべり続ける女性の声は、うつろなボクの脳内に届くことはなかった。なに言ってるんだろう? この人。なんか全然理解できないや…
一息おいてから、女の人は続ける。
「ここまでで質問は?」
「あの…あなたはどなたですか?」
「福利厚生課転生係の女神です」
「役所? えっと、お名前とか」
「そんなことはどうでもいいの。もう退所時間過ぎてるから、早くすませたいんだけど。余計な手間とらせないでくれます?」
「…」
「ひとつ、なんでも希望をかなえてあげることになっています。なにがいいですか。なんでもいいのよ、言ってみて。だめならだめって言うから」
「え、ちょっと待ってください、希望っていわれても、そんな急に」
いらついたように、ため息をついた。
ちょっと待ってよ、なにがなんだか全然わかんないよ!
女神? 神さま? ずいぶん事務的だけど。
これって現実なの? それとも夢をみてるのかな。うん、ちょっと夢っぽい。でも、ボクは夢のなかで「これは夢だ」って気づけたことなんて一回もない。だから、きっとこれは夢じゃない。
っていうか、ボクは死んじゃったの?
車にひかれて? 道路に飛び出して? ついさっき、男の人から逃げて大通りに飛び出して? もう二度と家に帰れないの?
実感がまったくない。なにもかも、あまりに急すぎるよ。
ただ、さっきの夜の路地裏を逃げる時の、お腹のあたりでちりちりする恐怖感だけは間違いなく現実だと思う。あの時の恐怖が身体のなかに小さくよみがえってきて、ボクはちょっとだけ震えた。
「早くしてくれます?」
ちょっと待てや! わけわからんって言ってんじゃん。せかすなよ!
希望? なんでもいいってこと? 神さまだもんね。
でも、どうしていいか全然わかんない!
「きつい世界ってなんですか。どんな世界なのか、せめてちょっとだけでも教えてほしいんですけど。生きるのが大変なとこに飛ばされちゃうの? やだよ、そんなの」
だめだ、返事もしてくれない。女の人は、また下を向いてなんか書き出した。さすがにいらっときた。
希望って。
ボクの希望。こうだったらうれしかったこと。こうありたかったこと。今まで望んでも、けっして得られるはずのなかったもの。ボクの、一番の、願い。
意識せずに、ふと口にでていた。
「ボク…女の子になりたいです」
「…あのねぇ」
ペンを止めて、ちらっとこっちを見る。あれ? 哀れみのまなざしのような…なんか頭の弱いかわいそうな子、とか思われてる?
「もういいわ。もう時間切れ。生き延びるための力をテキトーにつけてあげるから、もうとっとと行きなさいな、女の子のくせに、なに言ってんのかしら、もう」
「え、え、ちょっと待って、ボク違います、違うってば、ボクは女の子じゃ…わっ!」
次の瞬間、目の前が白く爆発した。
何も見えなくなって、真っ逆さまに落ちていく感覚、一瞬なのに、まるで永遠のような感覚は、ボクを混乱の底に叩き込む。
ぐるぐる。目が回る。ぐるぐるぐる…
そして、ボクは気を失った。