憂鬱な休日
朝4時、耳元の不快な羽音で目が覚める。
眠い体を起こし、周囲を見渡し音の発生源を検索する。
そこにはカメムシがいた。
部屋を暖かくしていたせいだろうか、そいつは小指の第一関節ほどの少々大ぶりなカメムシで、ふてぶてしくも我が家の壁にしがみつき暖を取っていた。
私はため息を付き、ベットの下に常備してあるペットボトルの水を飲み干した。
それの側面を潰して呑み口を奴の頭上に被せて吸い取り蓋をする。
奴はペットボトルの中でカタカタと音を立てながら足をバタつかせ暴れた。
不条理かな奴の屁もこのペットボトルにはなんの効果もない。しかも自分が臭い思いをするだけ。
ペットボトルを持ちながら階段を降りスリッパを履き、玄関を開け石畳の上に奴を放った。眠りを妨げる重罪者に慈悲はない極刑ぞと言わんばかりに奴を踏み潰した。グロテスクにも奴の外骨格は割れ、赤々とした中身が露出。
あとは掃除屋さんが持ち去ってくれるだろうと思いその残骸を放逐し再び家の中に戻り眠りについた。
腹が減り二度目の起床。
階段を降り冷蔵庫の中になにかないかと模索したが食えるものがなく、そのまま飢えを凌ぐわけも行かないので、休日の重い足取りの中財布とジャンパーを羽織り、ほぼ寝巻きのまま玄関を出てドラッグストアへ向かった。
無水カレーが食いたかったのでその材料で使うトマト缶を手に取りホールかカットトマトどちらの缶のトマトが適当か互いを睨み考えていると、
ふと「あのカメムシはどうなったのだろう」と掃除屋さんの餌になっているだろうか?とか考えながら帰宅し、玄関先の石畳にちらりと目を配った。
それはまだあった。
だがそれはそこにあるだけではない明らかに増えていた。
足の数や体、頭の数がどうにも合わない。
それに奴の煎餅のように広がった残骸は明らかに面積を増していた。
家を出た時、気付かぬうちにもう一度踏み潰してしまっていたのだろう。
共食いをする奴らを気にも求めずに、自然の摂理なんだろう畜生以下のする奴らのすることだ仲間意識なんて毛頭ないのだろう。
だがそれが機械的で少し不気味に思った。
もう二度とそういう光景を間接的にも観測したくないので、それを足で退かし目立たない場所に放置した。
石川のこの時期の夜はよく冷え込む。
それに今日は強く雨が降っている。
雨が窓ガラスを打ち付け静かな自室によく響く。冷え切った自室を暖めるために電気ストーブをつけた。
少し古いストーブなので温め始めるまで少し時間が掛かる。
私は寒い手に息を当て手をこすり、ポケットのスマホを取り出しストーブがつくまでの時間つぶしをした。
今日の昼にあった不快な出来事を思い出した。
カメムシは共食いをするのだろうか?
検索エンジンに『カメムシ 食性』と入力した。
何本かのカメムシ関連の記事を閲覧し分かったことが、カメムシは基本的に草食性で口にある針を植物に刺し消化酵素を注入しその液を啜るらしい。
なら昼間のカメムシは一体何をしていたのだろうか?
私がただカメムシだと思い込んでただけで、
実は別の生物じゃなかったのだろうか?
色は薄茶色だっただろうか?
形は?もしかして新種?
増殖する疑問。
乾いた爆音が静かな部屋に響き渡る。
不意に起動した老いぼれストーブが私の思考を途絶させた。私の考えすぎだ。
無駄に自身の不安を煽るのはやめよう。
その日の夜は部屋が温まるまで次の日の講義の準備をし、布団を被り足元をストーブで温める。
そのまま惰性に足の指先でストーブのスイッチを切り眠気の赴くまま雨音の中私は眠りについた。
夢だろうか。
気がつくと私は辺りが紅葉が色づき、様々な野生の果物が熟し甘い香りが漂う森林に1人立っていた。
その景色や芳香は私の副交感神経を優位にしとてもリラックスさせる。
だが少し不自然な事に気がつく。この場所は音がないのである。
全くの無音。
こんなにも豊かな森で風によって葉と葉が擦れる波のような音も無く、虫のさざめきさ一切ない。
少し不気味に思いながらも私はこの場所でリラックスしようと思い腰を落とした。
何か潰れる音が、無音の空間に嫌に響く。
その不快な音の原因を確かめるために目線を下に向け恐る恐る腰を上げようとした。
途端、私はカメムシに睨まれている事に気がつく。
圧に負け顔を上げることができない。
緩み切っていた血管は自身を締め付けるが如く収縮し、心臓は私の叫び逃げ出したいという気持ちを代弁するかのように悲鳴を上げ胸郭から飛び出す勢いで全身に血液を循環させている。
だが四肢や体幹の筋肉は現実から逃避し弛緩し切っている。カメムシは私に対して怒りを抱いているようだ。臭いで分かる。凄く泣きたい。
巨大なカメムシは私の頭を両足で押さえつけ、その鋭く尖ったストロー状の口は皮膚を裂き肉を抉り、骨髄針のように私の左足の骨に深々と刺さった。
痛みと恐怖に耐えかね手足をバタバタと動かそうとする私の思いとは裏腹に四肢に全くと言っていいほど力が入らない。何か熱いものが身体を蝕んでいく。最初は針の痛みに悶えていたが、だんだんその熱いものに痛みは塗り替えられていく。
私の骨や筋肉を犯し組織を何か別のものへと作り変えていく。それはヨーグルトの様なシェイクの様な食べやすい様に流動性の物へと変えていった。
痛み、恐怖、熱感、違和感、不快感。ありとあらゆる嫌なモノが身体を駆け巡り、自身の置かれている理不尽さにとめどない感情が流入していた。
夢なら早く覚めてくれ。
この拷問から私を解き放ってくれと願った。
耳元に響く不快な羽音で目が覚める。
体を勢いよく起こし心臓の音が身体の中で轟く。
汗でびっしょりな額を拭い、時計を見ると朝4時。
足元を見るとストーブの赤灯の暖色が部屋をほのかに照らしており、毛布が円状に焦げていた。
左足の違和感は嘘のように、アレが夢だったことを実感させる。
マットレスは寝小便なのかそれとも寝汗なのか判別がつかないほどに濡れていた。
辺りを見渡し羽音の発生源を荒れた息の中探る。
またカメムシがいた。
部屋を暖かくしていたせいだろうか、そいつは小指の爪ぐらいの大きさのカメムシであった。
我が家の壁にしがみつき私を睨んでいる。
私は窓を開け飲みさしのペットボトルの水をひっくり返し、恐る恐る呑み口をカメムシの頭上に被せて吸い取り蓋をした。
カメムシは一切暴れることなく玄関で私が蓋を開け放つまで私の事を睨んでいた。
また憂鬱な一週間が始まる。