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約束の輪舞

作者: ヴェルネt.t

この作品は前作「ペリエ城の雇われ城主」のスピンオフ作品です。

国王自慢の騎士と呼ばれる、フォルト・ド・パルティアーノの純愛エピソード。シャリナへの愛が描かれています。

たった一度だけ見たことのあるその小さな姫は、賢くも美しいと評判のアンペリエール夫人の膝の上で無邪気に瞳を輝かせていた。

夫人はただ一人の孫娘に絵入りの本を読み聞かせ、慈しむように姫へと眼差しを向ける…

二人は同じ亜麻色の髪と珍しい色の瞳の持ち主だった。色とりどりの花が咲く宮廷の庭園で、菫の花に似た大きな瞳の姫は、幼き日のフォルトの心に深い印象を刻んだ…


「おお、フォルト…またしても漆黒の狼に負けたそうだの…」

廊下でフォルトを捕まえた国王マルセルは、得意の「残忍な笑み」を浮かべながら言った。

「メルトワ国王の前で一対一の決闘を繰り広げた末の大敗であったとか…

いったい何故そのような真似を?」

問われたフォルトは無表情で義理の兄を反目した。国王の性格の悪さは王国瑞一だが、今日のマルセルはひときわ愉快そうな表情をしている。

「…強いて言えば、我が意地のため。」

「意地…?」

「あの男が私から奪ったものを取り返すためです。」

マルセルは不可思議な表情になった。

「漆黒の狼に何を奪われたと言うのだ?」

「言うに及ばず…こればかりは兄上にとて話す筋合いはありません。…どのみち敗北は敗北…終わったことです。」

では…と言って丁重にお辞儀をすると、フォルト はそのまま足早に歩み去って行った。

「…らしくない。」

手応えのなさに退屈さを感じながらマルセルは顎を摩った。

いつもなら二言三言は皮肉が返ってくるところを、今日のフォルトはいつになく神妙だったからである。


フォルトは憮然として廊下を歩いていた。

メルトワでユーリ・バスティオンに敗北して以降、なるべく宮廷入りを遠避けて来たが、姉である王妃エミリアに呼ばれ、やむなく訪れなくてはならなかった。

「兄上には会いたくなかった…私はいい笑い物だ。」

ユーリに決戦で敗れた事も恥だったが、それ以上にシャリナを奪い取れなかったことへの悔いがフォルト気持ちを苛んでいる…

シャリナはあの老公爵の策略によって結婚させられた…いかにあの男が誠実だとて、私はとうてい納得できぬ…

「漆黒の狼め…本当に忌々しい…」

フォルトは呟き、舌打ちを漏らした。


王妃の間では、エミリアがフォルトを待っていた。

大きなお腹を抱え、窓際に立って籠の中の小鳥に果実を与えている。

「久しぶりね。フォルト。」

エミリアは笑顔で言った。

「お久しぶりです、姉上。」

フォルトは跪き、首を垂れた。

「わざわざ呼び出してごめんなさい。あなたがここに来たくないのは知っていたのだけれど、どうしてもお願いしたいことがあって…」

「願い…?」

「ええ。」

エミリアは頷き、フォルトの方に歩み寄って来た。フォルトは身重の姉が転ばぬよう注意を払いながら立ち上がり、向かい合った。

「これをあなたに渡そうと思ったの…招待状よ。」

エミリアが差し出したのは一枚の封書だった。フォルトはそれを受け取り、内容に目を通した。

「祝賀会…?」

「イシュアに初めての子供が生まれたの。お祝いに駆けつけたいけれど、私は身重だし、代わりにあなたに行ってもらいたいと思って…」

末妹のイシュアがいるエルバド城はルポワドの東…即ち、ペリエ城にほど近い場所だ。

「祝賀会にはアンペリエール男爵夫妻も招待しているらしいわ。新妻のシャリナは滅多に公に姿を見せないことで有名だけれど、今回は夫人として同席するという事よ。」

「シャリナ・アンペリエールが?」

フォルトは驚いて顔を上げた。

「…あなたにとっては朗報でしょう?」

エミリアは意味ありげな眼差しを向けながら微笑んだ。

「シャリナに会って来なさいな、フォルト。ユーリはあまりいい顔をしないかもしれないけれど、妹の祝賀会という場でなら、あなたが彼女に接触しても問題はないはずよ。」

「姉上…」

「そんな顔のあなたは見ていられない…もうそろそろ気持ちに決着をつけていらっしゃい。あなたはパルティアーノの嫡子。跡継ぎが必要よ。」

エミリアの語調はいつになく強めだった。シャリナに対する思慕を打ち明けた覚えはないが、どうやら姉であるエミリアにはお見通しであったらしい…

「残念だわ。もしもユーリに出会わなければ、シャリナはきっとあなたを選んでいたでしょうに…」

フォルトは黙っていた。姉の思いやりは嬉しくもあったが、クグロワがなぜシャリナの伴侶にユーリ・バスティオンを選んだのかをエミリアは知らない…

老公爵は「漆黒の狼」の血筋を欲していた。シャリナの意思に関係なく、ブランピエールの権威と存続を優先した。シャリナに救いがあるとすれば、冷淡だったバスティオンが本気で戦いに挑んだという事実のみだ…きっかけはどうあれ、あの男がシャリナを愛しているのは間違いない様子だったが、だからと言ってシャリナが幸せとは限らない…

…姉上の言うとおりだ。この祝賀会がシャリナに接する最後の機会になる。会って確かめねば…

…シャリナ、そなたの心の内が知りたい。

それがフォルトの本心だった。


「招待状?」

ユーリは問い返した。

「ええ、エミリア様がご招待下さったの…妹君のお子様の誕生祝いの宴に…」

シャリナは嬉しそうに瞳を輝かせながら言った。

「王妃の妹君と言うと、ジョルジュ家からの招待か…」

ユーリは招待状をシャリナから受け取り、内容を確かめた。

パルティアーノ家の三女イシュアの嫁ぎ先であるエルバド城にて、第一子誕生祝いの宴が開かれる旨が書かれており、王妃エミリア直々のサインと封蝋が付けられていた。

…なぜシャリナに招待状が届く?

ユーリは眉根を寄せた。自分が不在の間にシャリナがエミリアと接見したのは確かだが、それもただ一度のことで、それほどの親交を深めた訳ではないはずだ。

…それに、パルティアーノ公爵の現当主はあのフォルトだぞ。

「あの…行ってはだめ?」

シャリナは躊躇いながら言った。

ユーリがあまりに渋面をしているので、不安になったのだ。

「いや…そうではないが…」

ユーリは否定したものの、本心は違った。今は少しの時もシャリナを離したくなかった。まして数日間も滞在させるなど、気が進まないどころではない…

「…この日は領地巡回の真っ最中だ…今さら変更は出来んし、俺が付いて行けない。」

「まあ、ユーリ、私は子供じゃないわ。」

シャリナは言った。

「貴方が留守の間に私が一人で行けば良いことよ。それならお互いに寂しくないでしょう?」

「シャリナ…」

「エルバド城はすぐ近くよ。これからイシュア様ともお付き合いをしなければならないし、そのためにも出席したいの…」

シャリナの手がユーリの胸に置かれる…魅力的な菫色の瞳が迫って来た。

「ね…いいでしょう?」

ユーリは唸った。つい半年前まで子供の様だった妻が、今や自分を魅了し、甘い誘惑で支配しようとしている…

「お前がそんな風だから心配なんだ…」

ユーリはなおも抗った。

「俺は行かせたくない…どうかここで待っていてくれ。そうでないと仕事が手につかない。」

本当に不安そうなユーリを見て、シャリナはクスリと笑った。確か夫は偉大な騎士のはず…なのに、つい可愛いと感じてしまう。

「心配し過ぎだわ…こんなに逞しい旦那様がいる私に、誰が危害を加えると言うの?…それに、今回はお祝いの宴だし、きっと大丈夫よ。」

…危害は加えないだろう…だが危険であることに変わりはないんだ。

ユーリは心の中で呟いた。フォルトの顔が脳裏をかすめる…王族で利発な若き騎士…シャリナへの愛を躊躇いなしに口にしていたあの男が来れば、シャリナに何を言うか分からない。フォルトとの一騎打ちはシャリナに話しておらず、フォルトが自分を愛していることなど、シャリナはまったく知らないのだ。

…だが、断ればシャリナの立場が悪くなる…それでなくとも周囲との交流が少ないシャリナの印象が、より良くないものになってしまうだろう…

ユーリは深く溜息をついた。

「…仕方がない。行ってくると良い。」

その言葉に、シャリナの表情が明るくなった。

「ありがとう。ユーリ!」

シャリナはユーリに抱きつきキスをした。ユーリも両腕で妻を抱きしめた。


「ようこそ兄上、心より歓迎いたします。」

エントランスで出迎えたイシュアの夫、キリアス・ジョルジュがフォルトの手を取り挨拶をした。

「お久しゅうございます。兄上。」

隣にいるイシュアも膝を折る。

「跡継ぎの誕生、まことにめでたいことだ。喜びも一塩であろう、キリアス。」

「はい。息子はジョルジュ家の嫡子…ひとまず胸を撫で下ろしているところです。」

「さもあろう。まことに羨ましい限りだ…」

答えるフォルトに違和感を感じ、キリアスとイシュアは互いに顔を見合わせた。こんな謙虚な発言をする兄を見るのは初めてだ。

「祝いに際して様々な催しを用意しております。滞在中は存分にお楽しみ下さい。」

「ああ、そうしよう。」

フォルトは素直に答え、またしても「らしくない」笑みを浮かべて頷いた。

異変の理由は不明だったが、少なくともフォルトの機嫌が悪くないことに、キリアスは密かに安堵した。


城内外には祝賀のための準備が整えられ、多くの招待客が続々と訪れていた。

案の定、フォルトの周りに領主や貴族達が群がり、半歩動くごとに捕まって身動き一つできない状態になる。

フォルトは煩わしいとは思いつつも適当に応対し続けた。現在は父親の代行を務めているが、現公爵はすでに病床にあり、そう遠くない未来にフォルトがパルティアーノの爵位を継ぐことは明らかだった。そのため、領主達は次期公爵への忠誠を誓い、それぞれ領地の権利を維持することに躍起になっているのである。


その夜、ジョルジュ家の晩餐会を終えたフォルトは自室に戻るため回廊を歩いていた。月明かりが足下を照らしており、空には星々が輝いている。

…シャリナは明日にも来ようか…

フォルトは立ち止まり、夜空を見上げた。12月半ばの空気は冷たく、夜は凍えるような寒さだ…

夫に伴われ、馬車に揺られながら、今まさに愛しいシャリナがこちらに向かっている…それを考えるだけでフォルトの期待は高まった。

…シャリナはまだ19だ…以前会った時は少女のようだったが、今はもっと大人びて美しくなっているに違いない…

彼女をダンスに誘おう…漆黒の狼がいようと構うものか。

フォルトはほくそ笑んだ。自分は事実上パルティアーノ家の当主で、ユーリよりもはるかに優位なのだ。王族として堂々とシャリナを誘う権利がある…

「フォルト様…」

ふいに前方から声が聞こえ、闇の向こうから貴婦人が現れた。

想いに耽っていたフォルトはそれを妨げられて不快を感じつつ、訝しげに視線を向ける。

「わたくしはアマリア・デ・ダントンと申します。」

アマリアは恭しくお辞儀をした後でフォルトに歩み寄り、ほんの少し距離を置いて立ち止まった。年の頃は25・26歳であろうか…月明かりに浮かび上がるその姿は美しく、涼やかな目元とふっくらとした唇が艶かしい…

「何用だ、アマリアとやら…」

表情を変えずにフォルトは問うた。

「実は…」アマリアはさらに近寄り、フォルトの胸に手を置いた。

「失礼ながら…以前からフォルト様をお慕いしておりました…この想いをどうしてもお伝えしたくて…勇気を出して参りました。 」

背の高いアマリアの顔がフォルトのすぐ近くに迫り、フォルトは憮然とそれを見つめた。細い胴に腕を回せば、すぐに体が密着しそうだ。

「正面から私を誘うとは、大胆なご婦人だ…」

フォルトは言った。

「遠くから観るだけでは、何も叶いませんから…」

アマリアは目を細めて微笑んだ。その笑みは魅惑的で、成熟した女性特有の危うさに満ちている…

「確かに、それは一理あるな。」

フォルトも笑みを浮かべて頷いた。

「欲しいものは自ら手を伸ばして引き寄せねば…」

フォルトはアマリアの腰に手を回し、少し強引に引き寄せた。アマリアが顔を上げてフォルトを見詰める…目前に迫った彼の顔に、自ら顔を近づけて来る…

「だが…その誘いは全くの無駄というものぞ…」

アマリアの瞳を覗きながらフォルトは言った。

「今宵、私が欲しいのはそなたではない。」

そう言い放つと、フォルトはおもむろにアマリアをつき離した。アマリアはよろけながらフォルトを反目する。

「身の程を弁えよ。気安く私に触れるでない。」

冷たく吐き捨てると、フォルトはすぐさまその場を離れた。こう言った場面には慣れている…滞在中にはおそらく幾度も出くわすだろう。

…意中の者は既婚者で、私には何の興味もないときている…まったく何という理不尽だ!

シャリナが愛おしかった。彼女が欲しくて堪らなかった。

「シャリナ…」

フォルトは呟き、ほぞを噛んだ。


「十分に気をつけるんだぞ…見知らぬ者について行ってはだめだ。絶対に誰かと二人きりになるな。」

先立って出立しなければならないユーリはエントランスに立ち、子供に言って聞かせる様にシャリナに向かって注意していた。

「大丈夫…分かっているわ…心配しないで…」

シャリナは困惑しながら頷いてみせた。

ユーリはこんなに心配性だったかしら…とシャリナは困惑したが、彼があまりにも真剣なので無下にもできず、何度も何度も頷いてみせた。

「では…行って来る。」

ユーリはなおも不安そうな面持ちだったが、仕方なくシャリナの手を離した。

「帰りは迎えに行く…俺が行くまで待っているんだぞ。」

「はい。そうします。」

シャリナは素直に答えて笑顔を見せた。

ユーリは後ろ髪を引かながらも騎乗し、従者と共に出発した。振り返ると、シャリナが笑顔で手を振っている…

シャリナがあの男に誘惑されないうちに行かねばならん。

ユーリは決めた。予定を詰めてでも、急ぎエルバド城へと迎えに行こう。

「さっさと仕事を終わらせるぞ!」

従者に向かって言うと、さらに馬へと拍車をかけた。


滞在2日目にして、フォルトはペリエより到着した馬車に乗っていたのがアンペリエール夫人一人であったとの報告を受けた。

…シャリナが一人で⁉︎

フォルトは驚きを隠せなかった。

彼女は類を見ない世間知らずだ。大伯父と父親の過剰な庇護によって公の場所に出ることなく育った末、そのままユーリ・バスティオンと結婚した。外の世界をほとんど知らない箱入りのシャリナが、ここまで単身訪れたというのか⁉︎

彼女が「漆黒の狼」の妻であることを知る者はなく、今のシャリナは心細げな貴婦人にしか見えない…好色な男どもの恰好の餌食だ。

「…迂闊にも程があるぞ、漆黒の狼!」

フォルトは苛立ちながらも機会を待つしかなかった。主役である赤児の披露の時間になれば、シャリナは必ず現れるはずだ。

「それまでは大人しくしておるのだぞ…」


昼下がり、大広間に来客が集まってきた。

小さな揺りかごに乗せられた赤児を中心にキリアスとイシュアが横に並んで立ち、次々に祝福を受ける。

…どこにいる。

フォルトはその様子を静観しながら、密かに視線を巡らせた。

この儀式が終わればいよいよ祝賀の宴が始まる。その前に必ず捕まえねば…

来賓が長い列をつくる中、ついに小柄な貴婦人が目に入った。アイリス色のドレスをまとい、アイリスの花と真珠の髪飾を身につけたシャリナがいる…可憐で清楚なその姿は、どう見ても既婚者とは思えない容姿だった。

…シャリナ。

フォルトの心が躍った。今すぐにでも出迎えたい衝動に駆られる…

シャリナは少し不安そうな表情で待っていたが、やがて順番が訪れると、恭しく膝を折って会釈をした。

「ペリエ領主ユーリの妻、シャリナ・ド・アンペリエールと申します。この度はご子息のご誕生、本当におめでとうございます。」

「よく来てくれたわね。シャリナ…」

イシュアが笑顔でシャリナに腕を伸ばした。

「お姉様から噂は聞いているわ…あの武骨で有名な黒騎士が愛して止まない幼妻は、とっても可愛い人なのよってね。」

「まあ…そんな。」

シャリナは恥ずかしくて真っ赤になった。

「本当に若くお美しい奥方だ…ユーリ殿の愛妻ぶりも納得がいくというもの…」

キリアスも言ってシャリナの手を取り、指にキスをした。

「あの…赤ちゃんを抱かせて頂いても?」

シャリナは遠慮がちに言った。どうしてもこの場に来たかった理由は、幼な子を抱いてみたいと思ったからだった。自分にはその経験が一度もなく、いずれユーリとの子を身ごもった時のため、少しでもその感触を知っておきたかったのだ。

「もちろんよ。」

イシュアは言って赤児を抱き上げ、シャリナにそっと託した。

「なんて小さいの…本当に…とても可愛い…」

シャリナはあまりの可愛さに目を細め、瞳を潤ませながら微笑んだ。家族を全て失い一人ぼっちになった自分にとって、子供は望んで止まない愛おしい存在だ…

「次はあなたの番ね…シャリナ。」

「ええ、その日が待ち遠しいわ…」

イシュアとシャリナが微笑み合う…

その微笑ましい光景に、フォルトの心が揺れ動いた。

シャリナが妻となって我が子を抱く…強烈な切望が湧き上がる...

僅かな時間の後、シャリナは名残惜しそうにイシュアへと赤児を返した。そしてもう一度膝を折り感謝を述べると、雑踏の中へと引き返して行った。

フォルトはすぐにその場を離れ後を追った。彼女を追っていると周囲に気取られないよう、距離を置きながらゆっくり歩いた。

「シャリナ…」

フォルトはようやく見つけたその姿に安堵した。廊下の片隅にシャリナが独りで立っている。辺りを見回しながら、次にどうすれば良いか迷っているようだった。

フォルトは立ち止まり、心を鎮めた。彼女にとって自分は一度会っただけの人間だ…パルティアーノと知っているだけに、彼女はただ恐縮してしまうに違いない。

「お迷いかな、ご婦人。」

フォルトは静かに声を掛けた。威圧しないよう少し距離を置いて立つ…

「あ…」シャリナはフォルトを見上げた。

「パルティアーノ卿…」

シャリナは慌てて向き直り、恭しく膝を折って会釈した。

「シャリナ・ド・アンペリエールと申します。あの…以前に一度だけお会いしたことが…」

「知っている…王の勅使としてペリエ城を訪れた際にお会いしたな。」

フォルトは目を眇めて言った。間近に見るシャリナはさらに可憐で美しい…

「お困りなら手を貸すが…如何なされた?」

フォルトの問いに、シャリナは頬を赤らめた。

「お恥ずかしいのですが…これからどうしたらいいのか判らなくて…夫に無理を言って来させて貰ったけれど、考えて見たら知り合いもいないので…」

「なるほど…それは不安であろう…」

フォルトは頷きながらシャリナの目前まで歩み寄った。

「…だが、知り合いならここに居る。安心するが良い。」

「まあ...」

シャリナが瞳を輝かせた。

「お心遣い感謝いたします。パルティアーノ卿…」

「フォルトと呼んでくれ。…夫君の代わりに私がそなたの付き添いを務めようと思うが…お許し頂けるか?」

フォルトは微笑みを浮かべながら右手を差し出した。

「フォルト様…」

シャリナは僅かに躊躇いを感じたものの、彼の善意を断る理由もなく、フォルトの手を取った。相手がパルティアーノ卿であれば、ユーリも納得してくれるだろうと思った。

日頃は貴婦人を全く寄せ付けないフォルトがシャリナを伴って会場に現れると、皆の視線が一斉に二人へと注がれた。

シャリナは人々の凝視と慣れないその場の雰囲気にたじろぎ戸惑ったが、隣に並ぶフォルトに「堂々としておれば良い。」と告げられ、大人しくその言葉に従った。

城内には様々な催し物が用意されており、大道芸や演奏会、ダンスなどで大いに盛り上がっていた。シャリナにとっては何もかもが斬新で珍しく、本当に驚くばかりの光景だった。

「観るのも初めての様だな…」

フォルトは問いかけた。シャリナの身の上は把握していたが、あまりに驚愕している様子なので、つい口走ってしまったのだ。

「はい。私はとても世間知らずの田舎娘で…大伯父様のお城でフォルト様と夫が槍試合をされたあの時が、生まれて初めて公に出る機会だったのです。」

「それまではずっとペリエ城の中に…?」

「ええ。父はあまり私を外に連れ出してはくれませんでした。」

「それは気の毒であったな…」

「そうなのかもしれません…けれど、そんな風に思ったこともありませんでした。付近には湖や森があって、毎日がとても充実していましたから…」

そう言うと、シャリナは屈託のない笑顔を見せた。

「なるほど。」

フォルトも口角を上げて微笑んだ。

「…ところで空腹ではないか?料理も珍しい物があるかも知れぬぞ。」

「そう言えば…」

シャリナは朝から何も食べていないことに気づいた。緊張の連続で、空腹であることも忘れてしまっていた。

「何か食べよう…」

様々な料理が並べられているテーブルへ、フォルトはシャリナを誘った。

「お料理も知らないものばかりだわ…これは何かしら…」

「食べて見れば分かる…」

フォルトが料理を小さく切り分け、シャリナの口へと運んだ。その行為自体に意味のあることなどつゆも知らないシャリナが自然にそれを受け入れる…

「美味しい…甘いわ。」

「林檎のパイだ…菫の砂糖漬けもある。」

フォルトはそれを自分の口に放り込んだ後、シャリナにも薦めた。

「そなたの瞳と同じ色の花だ…見た目も美しいが、香りが良い。」

「本当…素敵なお菓子ね。」

笑みを浮かべたシャリナの頬がほんのり染まった。

フォルトの心が喜びに満たされる…肩が触れ合うほどの距離にシャリナが居り、真っ直ぐに自分だけを見つめて来る。

…そなたは知るまい、私がどれほどこの日を待ちわびていたか…

記憶に残る菫色の瞳…その溢れるような大きな目と愛らしい笑顔に愛しさを感じた…差し出された小さな手を握り、生まれて初めて無邪気にはしゃいだ幼い日を、1日たりと忘れたことはない…

「そなたは幼すぎた…憶えてはおらぬだろう。」

「え…?」

シャリナが目を丸くするのを見て、フォルトは思わず苦笑した。

「…こちらの話しだ。」

フォルトが付き添ってくれているおかげで、シャリナは安心してゲームやダンスに参加することができた。見たこともない大道芸や競技を観る際も、彼が詳しく説明してくれるのでとても解りやすかった。

「こんなに楽しい日は初めて…あなたのおかげよ…フォルト。」

シャリナは弾けるような笑顔で言った。

「私もだ。シャリナ…」

楽しい時間を過ごすうち、お互いに名前を呼び合うことも自然になっていた。まるで昔馴染みであるかのように、二人は身を寄せ合い笑い合った。

夕闇が迫る頃、屋外の催しも終わりを迎える。

寒さに震えるシャリナに自らのマントを羽織らせながら、フォルトは言った。

「もうすぐ夜会が始まる…大広間では爵位貴族だけの舞踏会も開催されるぞ。」

「まあ…さぞかし華やかなのでしょうね。」

シャリナは伏し目がちに俯いた。

「…でも、私は参加出来ないわ…ユーリがいないし、ダンスも上手ではないもの。」

「そんなことはない。昼間のダンスはなかなかのものだった。」

「あのダンスは楽しかったけれど…田舎娘の私が爵位のある方々とご一緒になんて…とても無理よ。」

「そなたは男爵夫人である前にブランピエール公爵の姪孫だ。田舎娘などと揶揄する者は一人もおらぬ。」

「フォルト…」

「今日1日、私は夫君の身代わりを引き受けた。今宵の舞踏会は最後の務めだ。周囲の目など気にせず、存分に楽しもう。」

それでも躊躇いを見せるシャリナの麗しい瞳を、フォルトは愛おしげに見つめた。ここで手を離せば全てが終わる…二度とシャリナに触れることは出来ないだろう。

「ダンスの得手不得手など大した問題ではないぞ。私もお世辞にも上手いとは言えぬからな。」

フォルトが自分を卑下しながら笑うのを見て、シャリナは思わず笑みをこぼした。この方は何てお優しいのだろう…

「だとしたら、私たちは下手同士と言うことになってしまうわね…」

「そうだ…ならば恥ずべきこともあるまい?」

「…そうね。」

二人は互いに見つめ合って笑った。

「まあ、雪よ…」

シャリナが言って空を見上げた。

「おお…先ほどまで月が見えていたというに…」

フォルトも空を仰いだ。

舞い散る雪がシャリナの髪や肩へと落ちる…また一段と寒さが増したようだ。

「体が冷える…中に入ろう。」

フォルトは冷たくなったシャリナの手を取り、片手を背に当て誘った。

気づけば、回廊に明かりが灯されていた。ジョルジュ家の嫡子誕生を祝うための蝋燭と燭台が並べられ、回廊の道を照らしている…

「綺麗…なんて素敵なの…」

その幻想的な光景に、シャリナは瞳を輝かせた。こんな演出を見るのは初めてだった。

「おそらくキリアスの発案であろうな…なかなか味な真似をする。」

揺らめく光の道を歩きながらフォルトも感心した。

灯した明かりに照らされるシャリナは美しい…二人で歩くこの瞬間は、まるで夢の中にいる様だ…

「舞踏会の会場はこの先だ…さあ、行こう。」

次第に人々が現れ始め、すでに会場である大広間には大勢の人が集まっていた。貴婦人達は華美に着飾り、付き添う男性も上質な服を身につけている。この場に居るのは爵位を持つ者ばかりで、シャリナはやはり場違いな自分を感じた。

「自信を持て…私が付いている。」

シャリナの不安を察したフォルトが耳元で囁いた。シャリナからマントを取り去り、その手を引き寄せ細い腰へと片手を添える…

背筋を伸ばして顔を上げたフォルトは威厳に満ちていた。王族である彼の品格が一瞬で体現される…シャリナは少し気後れを感じたものの、覚悟を決めて顎を上げた。

フォルトが伴っている貴婦人が何者なのかを知る者は皆無だった。

ユーリ・バスティオンが隣に並んでいたなら、それが彼の妻だと誰もが認識したことだろう。

…今のシャリナは私の同伴者…私だけのものだ。

フォルトは周囲の凝視になど目もくれず、堂々と会場の中央へと進み出た。

程なく奏者達が演奏を始めると、フォルトはその曲を聞き取り、シャリナへと視線を注いだ。

「さあ、本番ぞ。」

「はい。」

シャリナは頷き会釈をした後、舞いのステップを踏み始めた。

始まりは静かな曲調…周囲の動きに合わせて軽く体を弾ませる。

…彼が上手じゃないなんて嘘だわ…

シャリナはすぐに判断した。フォルトの舞は完璧で、素晴らしい身のこなしで先導してくれている。

…きっと緊張をほぐす為にあんなことを言ったのね。

シャリナは舞いながら感謝した。彼の巧みなリードによって動きが引き出され、綺麗なステップを踏むことができる。不安だった気持ちが解消し、とても楽しいと感じている…

「上手いぞ。その調子だ。」

フォルトが笑いながら言った。シャリナも笑顔で応えた。

二人の素晴らしい輪舞に、人々の視線は釘付けになった。

貴婦人に対する冷遇では極めて評判の悪いフォルトが、極上の笑顔で舞を披露している…相手は誰とも知れぬ若い貴婦人だ。

次第に熱を帯びる二人の様子に当てられたのか、周囲も続々と舞い始めた。その雰囲気を感じとった奏者も、次々に演奏を続けた。

この時が永遠に続けばいい…

フォルトは幸せを噛み締めた。遠き過去の記憶が蘇る…体こそ成長したが、あの日もシャリナと手を繋いで踊った。大人の舞を見よう見真似で模倣し、二人はとんでもなくはしゃぎまくった。

「あの時と同じ…今の私たちに何ら障壁はない…そうだろう、シャリナ?」

フォルトは声に出して言った。

「あの日から私の心は囚われたまま…今もそなただけのものだ。」

「フォルト…?」

シャリナはフォルトを瞠目した。彼の言葉の意味がわからなかった。

二人の輪舞はその後も続けられた。次第に大きく大胆になり、やがて体力が尽き果て終わりを迎えた。

「外へ出よう。」

観衆の有らぬ疑惑や中傷を避けるため、フォルトはシャリナの手を引き即座に会場を後にした。

「とても楽しかった。」

シャリナは嬉しそうに言った。今は上階のテラスにいて、会場から持ってきた果実酒を口にしている。火照った体に冷気が気持ちいい…

「雪はひと時であった様だな…」

空を見上げながらフォルトも言った。

月明かりに照らされ、お互いの顔がよく見える…

「あの…フォルト、尋ねたいことがあるのだけれど…」

シャリナがおずおずと口を開いた。

「何だ…遠慮なく申せ。」

フォルトはシャリナに視線を移した。シャリナの大きな目が自分をじっと見つめている…

「もしかして…私はずっと以前に…あなたに会ったことがある?」

シャリナの言葉に、フォルトは目を見開いた。

「…何故そう思う?」

「解らない…でも、あなたとダンスをしている時…何か懐かしいと感じたの。何も思い出せないのだけれど…ただそう思って…」

フォルトはシャリナを反目した。

…そなたの記憶の片隅にも、あの日のことが残されているのか…?

フォルトは真実を告げるべきか迷った。告げればシャリナは全てを思い出すかも知れない…

「…祖母の記憶はあるか?」

フォルトは訊いた。

「お祖母様?…ええ、あるわ。」

「では、アンテローゼと宮廷で過ごした記憶は?」

「お祖母様と…宮廷に?」

シャリナは記憶を探ったが、覚えがなかった。アンテローゼとの記憶はごく小さい時に途絶えており、思い出もあまりなかった。

「いいえ。あるのかもしれないけれど…解らない。」

「そうか…」

フォルトは口角を上げて頷いた。

「確かに、私はそなたに会っている…8歳の時だ。」

「そんなに前…じゃあ私は…」

「そなたはまだほんの幼な子だった…4歳程度であろうか…」

「まあ…」

シャリナは驚き、感激した。自分は忘れてしまっているのに、フォルトは覚えていてくれたのだ。

「そうだったのね…何故もっと早く教えてくれなかったの?」

シャリナが少し距離を詰めて言った。

フォルトの鼓動が早くなる…もう一歩近づけば、自制が効かなくなるかも知れない…

「遠い過去のことゆえ…言うまでもないと思った。」

フォルトは顔を背けて言った。

「誰かに尋ねることが出来ればいいのだけれど、私にはもう誰も家族がいないから…もう少し教えて欲しいわ、フォルト。」

フォルトの葛藤など知らないシャリナは、瞳を輝かせながらもう一歩を踏み出した。無謀にも身を寄せ、顔を近づけて来る…

…手を差し伸べてはならぬ。

フォルトは必死に抗った。一度触れれば抑制できない…シャリナの信頼を失ってしまう。

「フォルト…どうしたの?」

フォルトが黙っているので、シャリナは表情を曇らせた。

「私…何かいけないことを言っている…?」

「そうではない…」

フォルトはシャリナに視線を戻して言った。

「シャリナ…その話はもう終わりだ。夜も更けた…そろそろ部屋に戻った方が良い。」

フォルトは静かに言うと、シャリナから離れた。

「…部屋まで送ろう。」


その夜、再び雪が舞い始めた。

フォルトはシャリナに思いを馳せ、まんじりともせず夜を明かした。

伝えることの出来なかったあの日の想い…そして、この先も伝えることのできない愛に苛まれながら…


翌日、

フォルトは扉を叩く音と従者の声で目を覚ました。

夜明けにようやく眠りにつき、気づけばすでに陽が高くなっている。

「何だ…用件を伝え。」

フォルトは不機嫌に言った。深酒が過ぎて頭痛が酷い…

「ご婦人が訪ねておいでです。急ぎお会いしたいと…」

「誰だ…それは。」

「アンペリエール男爵夫人です。」

「シャリナ…⁉︎」

フォルトは目を見開いて飛び起きた。

「たいそうお急ぎなご様子で…お通ししても宜しいでしょうか?」

「待て…」

フォルトがまともな返答する間も無く、自分の名を呼ぶシャリナの声が聞こえた。扉のむこうで彼女は言った。

「起こしてしまってごめんなさい…ユーリが迎えに来たので、最後にお別れを言いたくて…」

フォルトは慌ててガウンを羽織り、許可を出すより先に扉を開いた。

「フォルト…」

フォルトの顔を見ると、シャリナは胸に手を置き安堵した様に微笑んだ。

「良かった…もう会えないかと思った。」

「シャリナ…」

「ユーリが待っているので手短に話すわね。…私、思い出したの…あの日のことを…」

「思い出した…?」

「ええ、私はあなたとダンスを踊った…一生懸命大人の真似をして…そうでしょう?」

フォルトは驚き、シャリナを反目した。シャリナは瞳を潤ませていた。懐かしそうな眼差しで見つめている…

「忘れてしまってごめんなさい…あなたとの約束を私は守れなかった…あなたは覚えていてくれたのに…」

「そこまで…思い出したのか。」

フォルトの問いに、シャリナは頷いた。

「お礼を言いたかったの…あの時は求婚してくれてありがとう。とても嬉しかった…私の大切な思い出よ。」

シャリナは頬を染めて微笑んだ。その笑顔はあの日のままだった。

「シャリナ…」

フォルトは手を伸ばし、そっとシャリナを引き寄せた。

「…そなたは今、幸せか…?」

「ええ…とても幸せよ。」

シャリナの手が背に触れる…フォルトは静かに瞼を閉じた。

「そうか…そなたが幸せならば、それで良い。」


瞬く時を二人は共有した。

それは遠い昔の尊い記憶…二人が誓った無邪気な約束…


…この想いは叶わずとも、私の心は永遠にそなたのものだ…

フォルトは誓った。紛うことなき永遠の愛を…



























































































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