後編 「俺は『ここ』を信じてないんだよ」
二匹の獣が、その音に反応するように同時に後方へ視線を向ける。
大きく踏み込んだ男がすかさず獣の首の付け根に剣を突き入れた。分厚い皮を切り裂く感覚。どう、と絶命した身体が地面に落ちる重い音。そのまますかさずもう一匹に駆け寄ろうとしてーー青年の声、詠唱をしめくくる祈りの言葉が聞こえた。
とっさに横へと飛びすさる男の、靴先をかすめる水しぶき。
ゴォ、と、突然生じた突風と濁流が、二匹の獣を、元来た方向へいきおいよく吹っ飛ばした。
あっという間に何もない空洞と化した眼前の光景に男が呆然としていると、
「はー、やれやれ」
物陰から青年が現れる。杖でトントンと肩を叩きながら。
何か言いたげな男の目がついと動いて、青年のそれとかち合った。青年はにこりと微笑む。
「どうもありがとう。いくつかなら魔法も使えるんだけど大技しか出せないんだよね。詠唱時間がかかるやつばっかり」
「……」
「だからなかなか組んでくれる人がいなくて」
「そうだろうな」
男は短く答えて剣を収めると、先ほど何かが鳴ったところまで歩いていく。ほとんどは青年の魔法に押し流されて跡形もなくなっている所から、粘土質の地面にめりこんでいる空き瓶の破片を蹴り出す。男の仲間だった者たちが置いて行った荷物の中にあった、度数の強い酒のラベル。ここにくるまでの道中で、一人が浴びるように飲んでいたそれを、男が取り上げたのだ。
黙ってそれを見下ろす男の背に、
「そうだよ」ことさら明るい青年の声がかかる。「あの獣はひどく鼻がいいからーー酒や香草とか、匂いの強いものが、人間の嗜好品のにおいだと知っていて、それを頼りに追いかけてきてるんだ。だから投げた」
何か言いたげな男の目がついと動いて、青年のそれとかち合った。青年はにこりと紳士的に微笑む。
「このダンジョン内に遺棄されている死体を分析すると、初心者パーティーほど、足が遅くて力の強い獣の歯形が多い。進むスピードが遅いから、においがたどりやすくて、獣に追いつかれるんだ。ーー俺は研究者だから、それを事実として知っている。だけど、君はそれをなんとなく気づいていて、でも確証がないから、彼らには言えなかった。だから、酒や香草を取り上げて、誰がくたびれようと誰が怪我しようとお構いなしに予定通りのペースで進もうとしたがる、ガンコでクソ真面目な奴だって、みんな誤解された。だろう?」
男は何も答えなかった。
訳知り顔の青年は、確信めいた響きでもう一度同じ言葉を繰り返す。
「今度は俺と組まない?」
場に似合わないひどく明るい声が、周囲の石にわんわんと反響する。
男が青年を見る。
青年は楽しげに笑って、選択を委ねるように、登り坂と下り坂を指さした。
***
「俺は『ここ』を信じてないんだよ」
下層から這い上がってくる湿った冷気。
明かりを片手に階段を下りながら、青年が言う。
「神が冒険者たちを試すためにつくったダンジョン。最奥部は前人未到」
もう片方の手に持った杖で、コツコツと石造りの階段をつっつき。
「そんなに都合の良いものが自然発生するなんてありえない。と思ってたら、やっぱり、こんなところにこんな人為的な構造物。洞窟の大きさも階段の幅も、なんでかぴったり人間サイズ」
先を歩く男が小さく振り返るのに、眉を上げて。
「ああ、無神論者って珍しいみたいだね」
「違う。これを」
男が前方を指さした。一見、行き止まりのようにも見える白い石壁に、よく見ると小さなくぐり戸が設えられている。その上に『奥の間』『終着点』『王座』を意味する古代語が刻まれているのを読み上げて、青年が嬉しそうな顔をする。
ノブのない戸を男の手が押すが、びくともしない。
「壊すぞ」
青年が数歩下がったのを見てから、腰を落とした男が剣の柄を打ち付けた。
ごとん、と石戸が向こう側に倒れる。ぽっかりと空いた穴に、松明を受け取った男が潜り込み、すぐに青年を手招きした。
「偉人の墓?」
「いや」
男の言葉を遮るように、ウォォオオオ、と地鳴りのような声が、石に反響する。
青年が見たのはーー
巨大な祠のような、地下牢だった。
高い天井から均等にそびえ立つ鉄格子の向こうから、色鮮やかな黄色い鱗をがさがさと揺らして、大きなトグロを巻いた大蛇が二人を見下ろす。
「蛇竜!!」と青年。
蛇の尻尾が巻きついていた鉄格子の一本が砕け散る。男がとっさに剣を構える。しかし蛇がその格子をくぐり抜けるよりも圧倒的に早く、鉄格子が仄かな青い光をまとってーーすみやかに元どおりに再生した。新品の鉄同然の光沢で、松明の炎を反射する。
おお、と青年が感心したように言う。「『永久再生』。今となっては原理不明の古式魔法のひとつだよ。初めて見た」
男が息を吐き出した。「……冒険者用のダンジョンではなく、蛇竜の檻か」
うなずいた青年が、蛇の右目のすぐそばにあるあざのようなものと、鉄格子の上辺とを順に指さして。
「あれは人を喰った生物に押す焼き印。それと、あの文様からすると、これは古代教の祠でもあるね。西国では、人を喰らう強い鳥獣を生きたまま捕らえて祭壇に祀る、っていう風習があったって聞いてるけど、この国にもあったんだ」
大蛇を嬉しそうに見上げる青年を見て、男が剣を持ったままで聞く。「で、どうする、殺すか」
「冗談だよね? 何百年前の勇敢な人たちの努力と、生物学的財産をぶっこわす気なら、さっきの話はナシ」
「さっき」
「裏メニュー」
顔をしかめて黙り込む男の前、檻の対面にある白い石壁に向かって、青年の杖が振られる。初到達者の証として刻まれる、今日の日付と『月と梟』の紋ーー鎧の男の家紋。
青年は足元に落ちている板切れのように分厚い鱗をいくつか拾い集めて荷袋に入れ、「研究試料分を引いても、家賃と食費10年分くらいにはなるかな」と小さく嬉しそうに言う。
それから、大蛇を見上げて「また来るよ」と声をかけ、隣で剣を収めた男に確信めいた響きで笑いかけた。
「また、来るだろ?」