ヨガ世なら--ダーラナー
ええ、前回、どうやったらダーラナーを実践できるか、と振っておきながら全くそれには触れずに終わってしまいました。
というより、何がダーラナーになるのか、なんの役に立つのか、という事を考えて見ましょう。師の近藤は、プラティヤハーラによって深層意識にまでたどり着く、というところまで書いていました。だとしたら、そのたどり着いた深層意識をどう扱うか、その海底の岩盤たる深層意識をどうにかするのがダーラナーではないかと思われます。深層意識といえば、御存じマーフィーの法則、これに関わってくるのではないかと自分は考えます。さて、ダーラナーの事を佐保田氏は”凝念”と訳しました。つまり、意識を集中する事。自分は、勝手にダーラナーは集中力、ディアーナが集中心だという風な言葉で解釈しております。因みに、ダーラナー以降の三つをサムヤマ、或いはサンヤマと呼ぶそうです。サマーディーにまで達したら、集中するという意識すら必要ないのではないでしょうか。マーフィーの法則では、自分の願いを何度も何度も繰り返しイメージせよ、という風に教えております。これは大体どの作者でも、いわゆる深層心理に関する本では同じです。要するに、プラティヤハーラで雑念を払い、ダーラナーで自分がイメージする事に集中し、ディアーナでは更に没頭する、それが当たり前になるとサマーディー、という事ではないかと思います、自分がわかってる段階では。師匠が良く引用するヴィヴェーカーナンダ師の著書には、ダーラナーはどこか体の一部に意識を集中せよ、と書いておりますが。
因みに、禅宗ではこの時にイメージするのがいわゆる”空”だとか”悟り”ではないかと自分では勝手に解釈しております。素人が何を勝手な、お前如きに判るようなら偉い御坊さんが苦労して修行する必要ないわい、などといわれそうですが、それは誤解です。事の概念くらい、素人でも言えます。実践する事が難しいのです。要するに、野球にうるさいファンが薀蓄傾けて素人評論家になるが如し、それだけで野球選手にはなれませんよね?それと同じです。野球は体を使う、座禅は頭だろうって?それこそ全く理解していないという事です。精神修養の修行というのは赤肉団とかいわれて、頭で考えるのではなく体で実践するものだそうです。禅という高尚な世界を頭で理解しようとしている自分など(否、理解できない事はわかっております)は、実際には選手になれない(ならない?)素人野球評論家のようなもの、自分が体を張ってイメージに取り組むのが高尚な悟りの世界ではありませんか。
春夏秋冬朝昼晩と家に引きこもって日本人への劣等感と”恨”を絞り上げながらネットだけでガチったって、頭が加熱するだけなのと同じですよw
多分、師匠がダーラナーを説明するとしたら、内界へ意識を集中しろ、というような解釈ではないかと思われますが。要するに、プラティヤハーラで内界に参入し、その後ジッと定着するとか、更に深く掘り下げる事をダーラナーという--こういう感じではないかと。
師匠は良く砂金を採る例えで説明してくれました。僅かな砂金を集めるのに、川底から大量の泥を救い上げて、辛抱強く選別する--泥を拾い上げるのがプラティヤハーラなら、ダーラナーは注意深くざるを揺らす作業、砂金を発見するのがディアーナかもしれません。