仏の顔もインド人?
今回は、ガラにも無く仏様のお話です。
インドの神々は、シヴァ神に代表されるような激しい、憤怒神などが多く描かれます。
これらが密教の御本尊となって日本にも渡来したわけですが、個人的には少しばかり違いがあるように思われます。
それは、日本の仏像に見られる、不動尊をはじめとした明王や仁王像の形相は真面目に怒っているのに対し、本場インドの憤怒神の絵画では、どこか笑っているように見えることです。というか、怒りだけではなく、あらゆる感情が無秩序に噴出したような、要するに生理的な興奮状態を描き出しているように見えるのです。
夢枕縛先生の魔獣狩りシリーズで、アジア密教のヘールカ神と女尊ヴァーラーヒの交合図を、怒っているように見える、笑っているように見える、泣いているように見える、叫んでいるように見える、などと描写していました。つまり、怒る、とか笑う、と言うような意図的な表情ではなく、人間の感情の更に奥に秘められたエネルギー、人間力とでも言うべき根源的なパトスを表現しているのですね。本気ではなく全力の、ガチな怒りと申しますか、興奮状態の挙句、恍惚となるような感じですか。
インドでは、高温多湿の気候条件のため、食物は殆ど強烈な香辛料で保温されています。よって、人間もまた興奮し易いのです。インド人というと穏やかなイメージがあったのですが、タイガー・ジット・シンが常連外人となって見事にそのイメージを覆しました。それこそ、新宿で猪木に殴りかかったジェット・シンみたいに異常な興奮状態になりやすいインドの神様は、しかめっ面で生真面目に怒るのではなしに、もう理由も何も分からん位、見境いなく興奮するのです。
対して日本の明王や神将はもっと真剣に、眉根にしわ寄せながら真面目に怒るのです。まるで、怒るのが自分の仕事だ、と言うように。不動明王の坐像なんかを見ていると、顔は神経質で不機嫌そうですが肩は怒らせておりません。これは興奮していないと言う生理状態を表現しています。顔を引きつらせながら、リラックスしているのです。繊細で執拗な緊張感、感情で怒らずに、意思で怒っているというような感じです。
仁王像なんかは肩を怒らせてますが、無理に盛り上げていると言う感じではなく、力が入って自然にそうなっています。これから、少しずつ落ち着いてくるような気配です。江戸初期の禅僧で、元は徳川家の家臣だった鈴木正三禅師は仁王禅と言って座禅も力一杯取り組むように勧めましたが、これは初心者の話、慣れてくると明王みたいに顔は怒っても肩が下がり、しまいには菩薩や如来になって慈悲の微笑に達すると言うわけです。
これがインドの憤怒神になると、肩を無理矢理上げている様に見えます。未熟で肩に力が入っているのではなく、それが正しい方法、悟りにいたる仕草の様に描かれているのです。いや、力が抜けているのに方が自然に上がる、これはむしろ肩幅広く上半身が逞しいコーカソイドたるインド人の人種的な特徴を現しているのかも知れません。