武の民、大和民族--自然と共存する狩猟民族のDNA
日本人は自然を大切にします。それは狩猟民族だからです。
我々日本人は武の民であると同時に、狩猟民族であります。故に、自然と共存してきた民族でもあります。
言うまでも無いことですが、農耕民族は自然を破壊する事を持って生活の基盤としております。木を切り倒し、森を畑に変え、自然を破壊する事で発達してきたのが西洋文明です。現在問題になっている環境破壊など、西洋文明の本質からすれば宿命と言うか、当たり前なのです。ただ、やり過ぎて自分たちにも不利益になるから調節しようとしているに過ぎません。それでも、西洋人はまだ本能的に森林に対する親しみとか畏敬の念があったのか、森を大切にする感覚が一方ではありました。
更に、西洋文明のルーツは砂漠の大河流域に起こった、アーリア人のバビロニア文明です。砂漠の民は、自然と対立してきました。それは仕方ない事です。何せ、自然とは厳しく乾燥しきった死の世界なのですから、生きると言う事は自然の驚異との闘いであります。チグリス・ユーフラテスに限らず、世界の主要な文明は大河の流域、それも半分以上砂漠に産声を上げました。これは、砂漠と言う苛酷な環境に生き残るためには人間の英知を尽くして自然を克服せねばならないと言う状況が齎した、当然の選択です。しかし、一方で様々な問題もはらんでいます。
ライバル、と言う言葉は同じ川の水を飲む者と言う意味である、と仏教思想家のひろちさや氏が書いておりました。以前に紹介したように、日本人は競争を好みません。それは狩猟民族だからです。森に住み、自然の恵みの中で生きる狩猟民族は競争などしません。相手は自然です。獲物が捕れる時は獲れる、獲れないときは獲れません。縄張り争いくらいはあったかもしれませんが、それにしても農耕民族の、それこそ百姓の水争いの過酷さに比べればそれ程激しくはなかったはずです。あまり憎悪を剥き出して場所を取り合ったところで、却ってその騒ぎで獲物が逃げるかもしれない。利益にならないから、さっさと別の狩場を探した方がよほど利口である。水場なら、逃げません。安心して徒党を組んで争い、しまいには相手を八つ裂きにしてでも水場を手に入れる。
このように、大陸の農耕民族は危機に際して団結する習性があります。普段いがみ合っていても、外敵が現れると団結する。日本人は逆です。問題が起きていないときには折れ合って共存しますが、外敵が現れると分裂します。元寇が原因で滅亡した鎌倉幕府然り、幕末の動乱然り、太平洋戦争のときも、陸軍と海軍がいがみ合ったために戦力がまとまらず、敗戦の最大の原因になりました。数千年にわたって外敵の脅威と隔絶され、身内同士の馴れ合いを享受して来た結果です。狩猟民族はお互いの領分を侵さないように生活するのは得意ですが、いざ大同団結できないのです。
農耕と同じく、牧畜もまた、自然を破壊します。と言うより、そういった生産型生活と言うものは、育てるものが動物であれ植物であれ、自然を押しのけて自分たちに都合の良い種族だけを選択的に増やすのです。
我が国も明治に入ってから西洋化が進み、それまで神の依り代として崇めていた鎮守の森などを伐採したり、牧畜業者の言う事を真に受けて日本狼を絶滅させるなどの行為をやってしまいましたが、それもこれも農耕民族の文明をそのまま輸入した結果です。
自然と森林を目の仇にしてきたのは中国人です。禿山に緑のペンキを塗って緑化運動と称する等、およそ樹木と言うものに対する愛着とか尊敬などと言う感覚が欠如しているのです。朝鮮人も同様です。わざわざ日本人が親切に統治してあげる前の朝鮮半島は見渡す限り荒涼たる荒地と禿山で、洪水も繁盛に起きていたとの事。