武術とスポーツ〈勝負とは、競争とは〉
武術にはルールは存在しません。
それはなぜかと申しますと、競争が無いからです。ていうか、競争や勝負と言った事を避けるのが武術です。競うのでも争うのでもありません。もし、誰か他人と争うことになりかけたら、それを回避します。その中には、相手を抹殺すると言う選択肢も含まれます。
『魁!男塾』に登場した冥鳳島十六士の一人、黒薔薇のミシェールは十万分の一で負ける可能性があったにも拘らず富樫と試合をやらかし、負けて命を落としました。何という無謀なことをするのでしょう。負ける可能性が、十万どころか一億、一兆分の一でも有ったら、絶対に勝負してはいけません。100%勝てる状況でなければ、勝負などしてはいけないのです。それが武術です。スポーツならばいいですよ。武術は違います。負ければ死ぬ可能性もあるのです。負ける危険が少しでもあるのであれば、受けてはいけないのです。
否、そもそも”勝負”などしてはいけない。一方的に”勝つ”のが武術です。
男塾では死んでも簡単に生き返るんですが、彼は不幸にして死んだままでした。もしかしたら、生き返るから簡単に試合を受けたのかもしれませんが。
宮本武蔵は、その著書『五輪書』で今まで試合を繰り返してきたが、手先の器用さに任せて勝ち抜いてきただけで真の武術が理解できたのは五十を過ぎてからであり、六十余度にもわたる試合に何故勝ち残る音が出来たのか、相手が未熟だったのだろう、と往年を振り返っています。これは謙遜でもなければ周囲に対する媚態でもない、本心だったと思われます。若い頃は勝敗を度外視して、それでもありとあらゆる手を尽くし、卑怯とも言えるほどの手段をもいとわず勝ち抜いて、そして生き抜いてきました。しかし、晩年は相手を選び、勝てる相手としか試合をしませんでした。負けるかもしれないと思うと、逃げてでも試合を避けた。これが武術です、真剣勝負です。武蔵は巌流島での一騎打ち以降、三十過ぎてから試合をしなくなったと言うような、不勉強な人も居られますが、試合はしています。ただ、数が少なくなっただけです。全くやらなくなったのは勝負です。勝つか負けるかと言う、不確かな試合はしなくなった。確実に勝てる試合しかしなくなったのです。だから、一億分の一で負けるかもしれないと判断した、二階堂流の村上某との試合を避けたのです。
グラップラーバキシリーズに登場したモハメッド・アライ・Jr選手は、偉大なるチャンピオン刃牙さんとの試合前に、
「殺されずに殺す」
などと、凡そ正気の沙汰とも思えぬ発言で相手を挑発し、惨敗しました。
別に、興行でお客さんの前でこういう大法螺吹いて試合を盛り上げるならいいですよ。しかし、試合前に相手にだけ聞こえるようにこんなアホなことを言うとは、どういうつもりでしょうか。殺すといわれて、ハイ判りましたとばかりに黙って殺される人間が、どこの世界におりますか。その手合いは自殺サイトかどこかで募集してください。
命のやり取り、なんてものは、少なくとも当人同士には存在しません。こげな事を言う人は、最初から死んでいるのです。お前は既に死んでいる。本気で殺すつもりなら、絶対に相手を刺激してはいけません。たとえ、力が絶対的に隔たっていてどう転んでも負けるはずは無い、という状況であっても、命が掛かってたら人間、否、生物は何をやらかすか判りません。窮鼠、猫を噛むということわざもございます。
もし、本気で相手を殺そうと持ったら素知らぬ顔で振舞わねばなりません。
柳生但馬守宗矩の弟、十左衛門宗章が試合前に相手を切り殺したことがあります。
周囲の人たちはそれは卑怯だとなじりましたが、当の本人にしてみれば命が掛かっているのです。斬られてしまえば死人に口無し、卑怯も糞もありません。
先般鬼籍に入られました藤田まことさんの代表作、必殺シリーズの中村主水は殺し屋です。
例外はあっても、基本的に仕事の際には騙まし討ちで相手を仕留めました。そのくらいでなければ、簡単に人は殺せません。
ちなみに、自分は前期の斬るスタイルより、仕事人シリーズで見せた後期の突きが好きでした。如何にも殺し屋っぽくて暗殺剣という感じだし、正直言えば正統派の剣術で言えば藤田さんより腕の立つ時代劇役者はいくらでも居られ、チャンバラよりも仕事人、というスタイルで騙まし討ちにする方が必殺の本質を捉えているような感じがするからです。木枯らし紋次郎なんかも、正統派の剣術ではなくワイルドな八方破れのヤクザ剣法が魅力的でしたし。
命の尊厳、なんて歯の浮くような言葉を持ち出すつもりは毛頭微塵ございませんが、殺されるというような状況を、少しでも臨場感を持って考えてみてください。誰だって抵抗します。
昔、ラジオ番組ので『命紅?誰がやるかいな』というPNの常連リスナーが居られましたが、まさしくその通りなのです。