武術とスポーツ〈十牛図〉
武術とスポーツについてですが、今回は、禅を引き合いに説明いたします。
武道と禅、なんていうと、どうも抽象的な精神論と言うか、無能者のごまかしみたいになってしまうところがある。
武道とは人の道である、人を殺めるためのものではない、云々。それがですね、散々戦いを繰り返し、殺して殺して殺して殺して、徹底的に殺しまくった人が言うのなら説得力あります。でうが、生まれてこの方人の一人も殺したことのないような手合いが論難することではない思うんですね。ですから、自分も本当のことを言えば、えらそうにいう資格はありませんが。
巷には殺人事件があふれております。そういう記事を見るにつけ、自分を顧みてむなしくなるときもあります。
武術だの、人殺しの技だのと肩肘張って、少なからず金と時間と労力をつぎ込み、痛い思いをして練習してきた自分が、気がつけば人の一人も殺したことが無い。しかも、武術なぞ練習したことも無い素人が、いとも無造作にそれをやってのけている。自分は一体何をやってきたんだろうなあ、何て。
それはともかく、歴史上実力派と言われる武術家の中にも、禅で心胆を練った人も多いです。中国武術の総本山とも言うべき少林寺も禅寺です。この頃の禅は後世の、黙って座ればピタリと当る、的な空疎なものではなく武術は勿論、現在の気功的な修行も有ったそうです。なんでも有りなんです、本来の禅て。
禅の教えを図にして解説する『十牛図』なる絵巻物が存在します。
悟りに至る過程を十枚の絵にしたものですが、これを見たからと言って、当然のことながら悟りを開けるというものではありません。敢えて言うなら、ダイエットメニューのスケジュール表みたいなもので、ただ眺めてるだけではやせられません。実行せねばモノにならない。
まあ、本当に悟りを開くかどうかはご本人の自由ではございますが、かいつまんで中身を説明すると牧童が牛を求めて色々苦労し、捕まえた牛を手放し、最後は市井の一市民として社会復帰する、これが禅のあるべき姿であると、いう訳です。良く聞く説法講話とか人生訓の原点みたいなテキストですね。
武術も似ています。
最初は、日常生活とはかけ離れた動作を練習し、一般人とは違う力を身に就け、最後は普通の生活の一部になるくらいまで自然なものとする。仏教用語に「味噌臭きは上味噌にあらず、悟り臭きは悟りにあらず」なんて言葉があるそうです。
武術もまた然り、如何にも大袈裟な動きは初心者です。
そして、道場に通わなくなって日常生活に徹しきっても武術の修行は続けられます。ただし、全くそういう心掛けを失ったら、武術でもなんでもなくなってしまいますが。要するに、自覚です。日常の身ごなし、足運び、重心、姿勢、あらゆることに、普段から注意を払います。生涯現役、と言うわけです。
私見ですが、こういうのを”武道”と言うのではないでしょうか?
これがスポーツであれば、社会復帰はすなわち引退です。
適当にジョギングやったり、ジムに通ったりするくらいは普通の人でもやりますが。
尤も、今まで書いてきたことは自分の知る限りです。
武術でも、昔日の殺し合いともなれば別でしょうが。