武術とスポーツ〈スピードに関する概念〉
またしても、スピードについてお話します。
今回のテーマは、武術的なスピードと、スポーツ的なスピードについてです。
自分は、武術のスピードは業務用のスーパーカブ、スポーツのスピードは新幹線のようなもの、と解釈しております。
業務用二輪スーパーカブは、最高速度と言ってもそれほど出せません。しかし、悪路でも狭い道でもお構い無しにすり抜けて、縦横無尽に走り抜けます。言ってみれば、生活と直結した動きをします。
対するに、新幹線は一旦勢いがつけば時速二百キロ以上の速度を平常的に出せますが、その為には大変な設備の建築が必要で、生活圏とは全くかけ離れた場所を走行します。
斯様に、武術とはできるだけ柔軟に、小回りの効く動きを体得することを基本としている、つまり日常生活でも簡単に駆動に移せることを前提としておりますが、スポーツは日常の動作とはかけ離れた動きを追求します。
よく、武術は日常動作の延長、などという言葉も目にしたり耳にしたりします。武術の動きは、できるだけ簡潔に、とっさの場合に実行に移せることを理想としているのです。その為には、できるだけ動きは小さいほうが良い。
一方スポーツは、できるだけ非日常的な力を追求するものであります。いわゆる、超人追求の道、と言う奴です。その動作も日常の動きとはかけ離れ、できるだけ速く、できるだけ強く、できるだけ高く、できるだけ遠く、を追求するのが、少なくとも基本的な出発点であります。まあ、古代ギリシアのオリンピアなんかはもっと美を追求する(それでも日常とは逸脱していることには変わりないが)芸術的祭典であったようですが、近代科学の思想とともに発展したイギリス発の競技スポーツは数字で表されるところの記録を前提としております。
つまり、武術において必要なスピードとは人間離れした異常なスピードではなしに、普段の日常動作からでも起動に移すことのできる、あまり特殊でないスピードなのです。しかし、中身は違います。つまりですね、形の上では通常の生活動作と変わりないが、神経速度と言うか、反応速度のようなものは全く違います。いわば、形はそのままで、質を変化させるのが武術なのです。
対するに、スポーツのスピードは、日常の動作とは全くかけ離れたフォームを出発点に、できるだけ豪快な、計測器ではかれるような目に見える数字をどこまでも追求します。
勿論、武術も最初は日常の動作とは随分違う姿勢で練習します。しかし、それは基本と言うか、最初の頃であって、技が磨かれれば磨かれるほど動きは小さく、自然になってきます。突きの動作一つにしても、最初は大股でどっしり構える弓歩捶から始まって、形意拳の崩拳の様な形になり、最後はその動きも殆ど見えない、と言うのを目指します。
スポーツではそういうのは無いですよね。如何に、無駄な動きがなくなった云々と言ったところで、基本的に普段の生活動作と逸脱していることには変わりありません。
もう一つ、打撃において、武術とスポーツで必要とされるスピードを比較しますと、武術のスピードは速度車輌、スポーツはF1的なスピード、と言う風に個人的には表現しております。
速度車輌というのは、後ろにノズルのついた、翼の無いジェット機みたいな車で直線距離での走行タイム、及び最高速度を計測します。これは競争ではありません。記録が認定されてから、その数字を比較して順位を付ける事は有っても、走るときには一台(一機?)だけで走行します。そして、単純な最大速度や走行時間だけを測定します。このエッセイで何度も紹介した、武術における打撃運動の概念におけるスピードと似ています。
対するにF1は皆横並びに(全部が一線には並べないけれど)スタートして、何週かサーキットを回る事で順位を競う競技です。言ってみれば、スポーツです。