甘党魔王の美味
ルル・ベルーはただの村娘だ。
特別美しい訳でもなく、特殊な才能がある訳でもない。ただちょっとお菓子作りが得意で、よく手作りのクッキーなんかをポケットに忍ばせているところが特徴な、割とどこにでも居るような少女だった。
それなのに、どうしてこんな事になっているのだろう……?
そんなことを頭の中で延々と考え続けながら、つい先程焼き上がったマフィンを皿に並べる。
バターのいい香りがふわりと立ち昇り、ルル・ベルーはへにゃりと顔を綻ばせた。キレイにきつね色をした、ほこほこと湯気を立てるマフィンは自信作だ。
しかし、あの人に出すに相応しいものとは思えない。あの人に相応しいのは、一流のパティシエが作る、宝石のように美しいケーキだろう。
ちらり、と視線を向けた先に居るのは、こんな田舎の村に似つかわしくない美しい男だ。
夜空を思わせる不思議と煌く黒髪と、村長の娘が自慢げに着けていたネックレスのルビーより何倍も美しく輝く紅い瞳を持った彼は、長い脚を組んで粗末なイスに優雅に座っている。そして、ルル・ベルーと目が合うと無駄に色気漂う笑みを浮かべた。
「ルル。良き香りだな」
艶やかなビロードを思わせる低い声にどきまぎしながら、ルル・ベルーはマフィンを並べた皿を男の前に置く。
「魔王様のお口に合えば良いのですけど」
「ルル、そんな他人行儀な呼び方でなくセヴェル、と呼べと言ったであろうに」
「いえ! そんな、畏れ多いことは……」
麦穂色の髪が乱れるのも構わず、ブンブンと首を横に振る。
美しい男――セヴェルはまごうことなく、魔の者たちを統べる王。この世界にたった一人の魔王だった。
今の時代、人間と魔の者は対立している訳ではない。むしろ、良き隣人として協力し合ったり、時には男女の仲となる者たちも居るのだ。
特にこの村は、昏闇の森を越えれば魔の者たちが住む魔王領ということもあり、魔の者たちとの交流は多い。
しかしだからと言って、魔王が近しき隣人の訳はない。名前で呼ぶだなんて、魔の者たちに知れれば物理的に首が飛ぶ。
そんな恐怖混じりに首を振りまくり、ふらりと小柄な体をよろめかせるルル・ベルーを長く逞しい腕で支えると、セヴェルは少し残念そうに笑う。
「無理強いするつもりは無い。それよりルル、早くマフィンを食べようか。マフィンは久方ぶりだ」
「ふぁっ、はい。少しお待ちください、いま飲み物を用意しますね」
耳元に落とされた甘く低い声に、一瞬膝から力が抜けた。
しかしすぐに力を振り絞ってセヴェルの腕の中から抜け出し、ルル・ベルーはキッチンに戻って紅茶の準備をする。お湯は既に沸かしてあるので、ポットに注いで程よく茶葉を蒸らすだけだ。
ルル・ベルーは頬に両手を軽く当て、一つ深呼吸をする。
大して時間のかからないこの準備の間で顔の赤みは引くだろうか。ちょっと震える手でカップへ紅茶を注ぐと、レモンとミルク、砂糖と一緒にトレーに乗せてセヴェルの元へ戻る。
「お待たせしました。魔王様はお砂糖一つとミルクを少し、ですよね?」
「ああ。覚えてくれたのだな」
口角を少し上げ、艶やかに微笑むセヴェルはどこまでも美しい。自然と心拍数が上がり、視線はその笑みに釘付けになる。
しかしセヴェルはそんなルル・ベルーの様子に少し笑みを深くするだけで、ついとマフィンへと目を向ける。そして男らしく大きな、美しい手でマフィンを取ると一口齧り付く。
ゆっくりとマフィンを味わいながら、口元に付いた破片を親指で拭う様はとても色っぽい。しかし、ふわりと浮かんだ幸せそうな笑みは、どこか無垢で幼い。
「美味い……」
「ふふ、お口に合ってよかったです」
ほんわりと嬉しそうな声で落とされた感想に、ルル・ベルーも笑みを浮かべる。そして一つマフィンを手に取り、セヴェルと出会うきっかけとなったことを思い出す。
§ § § § §
その日、ルル・ベルーは昏闇の森の側にとある花を摘みに行っていた。その花――桃珠花と呼ばれるそれは、桃色のスズランのような、小さな丸い花を付けるこの村辺りでは割とありふれた花だ。
しかし魔力の濃い場所で咲く桃珠花は格別に甘くなる。そのまま食べても勿論美味しいが、お酒にするともっと美味しいのだ。
花の色が移り、ほんのりと白く光るパールのような花が浮かぶ薄桃色のお酒は、見た目も可愛らしく、そして上品な甘さとほんのり桃のような香りがするルル・ベルーお気に入りの一品だ。
そのお酒を造るため、魔力の濃い昏闇の森近くまでわざわざ足を運んだのだった。
魔の者が良き隣人となり、魔王領も忌むべき場所ではなくなったとはいえ、決して安全とはいえない昏闇の森に近づく人は少ない。おかげで真ん丸な花を付けた桃珠花がたくさん生えているその場所は、ルル・ベルー専用の花畑と化している。
しかしその日は、花畑の中で一人の少年が倒れていた。
「ぇえっ!? キミ、大丈夫!」
慌てて側に寄ったルル・ベルーは、少年の姿を見てビックリする。
その少年の頭にはくるりと巻いた羊のような角があり、どうやら魔の者らしい。魔の者がこんなところで倒れているなんて、一大事だ。
思った以上の事態にあたふたとしていると、少年からグギュゥゥといった何やら聞き馴染みのある音がしてくる。
「もしかして……。お腹、空いているのかしら?」
「ぅぅ~、はぃ……。おねえさん、何か、ないですかぁ~?」
へにゃり、と可愛らしい顔を歪ませて見上げてくる少年は、なかなかあざとい。意外と元気そうな様子に小さく笑うと、ルル・ベルーはポケットからクッキーを取り出して差し出す。
「あまり美味しくないかもだけど、どうぞ」
「わぁ! ありがとう!!」
少年はクッキーを見た瞬間に跳ね起き、お礼を言うとすぐにもしゃもしゃと食べ始める。あまりにもすごい勢いで食べ進めているからとさらにクッキーを差し出せば、どんどん消費されていく。
村から少し離れた昏闇の森に行くからと、いつもより沢山クッキーを持って来ていて良かった。いつも持ち歩いている量は既に食べつくされ、今日持っているクッキーの残りもわずかになったころ、やっと少年は満足したようだ。ふぅ、と大きく息を吐いて満面の笑みを浮かべた。
「ごちそうさま! とっても美味しかったよ!!」
「ふふ、魔の者の方の口にも合ってよかったわ」
「うん、おねえさんが心を込めて作ってくれたものだからかな? おねえさん、とっても美味しそう」
にっこりと笑うその顔は、無垢なようでどこか妖しい。
魔の者は見た目通りの存在ではない。愛らしい少年の姿をしているが、どうやら目の前の彼は、危険な存在のようだった。
先程までのどこかほのぼのとした空気は遠のき、緊張に身を強張らさせながら少年を見つめる。この少年に抗う術は、ただの人間であるルル・ベルーにはない。
そのことは少年も十分に分かっているのだろう。
殊更ゆっくりとルル・ベルーへ鋭い爪の生えた手を伸ばす少年は、しかし突然ぶるりと体を震わせ、飛び退く。そしてポン、という小さな音とともに金色の小さめな羊に姿を変えると、あっという間に森の中へ消えていく。
「え……」
突然の出来事に呆然と森を見ているルル・ベルーに、深く優しい低音の声が掛けられる。
「大丈夫だろうか?」
「っふぁ、はい! 大丈夫、です!」
「そうか。間に合ったようで良かった」
そう言って艶やかな笑みを浮かべる美しい男――後に魔王だと知ったセヴェルの姿に、安堵も相まって、ルル・ベルーは腰砕けになった。
凄艶なまでに美しい魔の者は、もはや目に毒だ。しかし、何故か懐かしく、安心感のあるその姿に、目が離せなかった。
呆然とセヴェルを見上げていると、側に膝を付いた彼は、真摯な眼差しでルル・ベルーを見据えた。
「魔の者と人間は良き隣人ではあるが、ああいった者も居る。気を付けた方が良い」
「そう、ですね。助けて頂き、ありがとうございます」
「いや、大したことではない」
それだけ言うと、セヴェルは立ち上がって背を向ける。
あまりにもあっさりと去っていこうとする後ろ姿に、咄嗟に立派なマントの裾を掴んでいた。掴んだ生地の上等さに若干慄きつつも、なんとか声を掛ける。
何故だか、このまま別れたくなかったのだ。
「あ、の……。お礼、お礼をさせてください!」
「そなた……。気を付けるように言ったのだがな……」
苦笑して言われた言葉に、しかしルル・ベルーは必至で言い募る。
「そう、ですけど……! その、助けて頂いた方ですし、わざわざ、そういったことを言ってくださる貴方は、先ほどの方とは違うと思いますし……」
そして自分でもよく分からない、心の内を言葉にする。
「その…………。貴方と、もう少し一緒に居たいです」
「そなたは……!」
へにゃり、と眉を下げて見上げれば、セヴェルは片手で口元を覆い、ふらりと少しよろめいた。しかしルル・ベルーを見据える美しい紅玉の瞳は、熱く燃える炎のような光を灯している。
まるで獲物を目の前にした獣のような強い眼差しに、本能的な恐怖と、それからほんの少しではあるが、喜びを感じていた。
意識して笑みを浮かべれば、一瞬さらに獰猛な獣のような視線を向けられるが、一つ大きく息を吐いたセヴェルはすぐにそんな気配を散らした。
「…………礼を、受けよう」
「ありがとうございます」
そして助けてもらったお礼として手作りのケーキと、桃珠花のお酒を振舞ったのだった。その際、ケーキを気に入ったと次の約束をし、その後も度々セヴェルに手作りのお菓子を振舞っていた。
途中でセヴェルが魔王だと知ったときは血の気が引いたし、その後もずっと手作りのお菓子を求められることに、何故こんなことにと思うことはしょっちゅうだ。
しかし、次に何をセヴェルに作ろうかと考えているのは楽しい時間だった。そしていつの頃からか、ルル・ベルーはセヴェルの訪れを心待ちにしているのだった。
§ § § § §
マフィンを食べ終わったあと、日も暮れたからと桃珠花のお酒を共に飲みながら、セヴェルは甘美な時間を過ごしていた。
お酒が入り、素直に表されるルル・ベルーの感情は、極上の美味だ。腹と胸を満たすこの時に、セヴェルは満足気な息を吐く。
高位の魔の者にとって、腹を満たすものは人間のような食事ではない。感情なのだ。
自身に向けられる感情で腹を満たし、力を得る。
魔の者の中には恐怖や絶望といった感情を好み、虐殺を行う者も居る。しかしセヴェルが好むのは、甘く、優しい感情だった。自分に向けられる、喜びや好意といった良い感情を美味と感じていた。
そしてとりわけ美味なのが、ルル・ベルーの感情だ。
セヴェルが望み、そして恐らくルル自身も望んでくれている。そんな彼女からの好意の感情は、何にも代えられないご馳走だ。
ルルは羊の魔の者に襲われかけた時が初対面だと思っているだろうが、実は違うのだ。
彼女がまだ幼い時、既に会っていた。
昏闇の森の近くで偶然見つけた幼い少女が、べしょべしょと泣きながら薬草を摘んでいるのを見て、思わず声を掛けていたのだ。
後に調べたところ、ルルの母親が医者からもう長くないと告げられ、それでもと効果の強い薬草が取れるこの場所に来ていたらしい。そんな彼女は深い悲しみと絶望に包まれており、放っておけなかったのだ。
「そなた、どうしたのだ」
「ふぁ……!?」
突然掛けられた声に驚いた幼い彼女は、真ん丸な茶色の瞳をより丸くし、セヴェルを見上げた。そして未だ涙の残る目をキラキラと輝かせ、ほにゃりと笑ったのだった。
「よるのお空みたい! きれい!!」
「……!」
まっすぐ向けられた無垢な好意は初めて味わう美味で、何よりも、胸を満たしてくれた。
魔王であるセヴェルには、魔の者や人間だけでなく、魔獣や獣といったものからも畏怖や恐怖の感情を向けられる。だから常に力は満ちており、腹も一杯だった。しかし、どこか空虚でもあったのだ。
それが、この幼いルル・ベルーの一言で、満ちたのだった。
だから、この幼い子どもを喜ばせたかった。
「ほら、これを食べるが良い。美味いぞ」
「ほわ……! あまい!」
すぐそばに生えていた桃珠花を食べさせると、幸せそうに笑い、セヴェルも喜びで満ちていた。
しかし濃い魔力に浸った桃珠花は幼い人間の子供には強すぎたのだ。あっという間に昏倒してしまったルルに、セヴェルは絶望した。そして昏倒したルル・ベルーを家へ送り返したあとは、そっと見守るだけにしたのだった。
近づいて、またルルを傷付けてしまうことが怖かったのだ。
しかしあの日、不用意に魔の者に近づいて害されそうになった彼女の前に、思わず現れてしまった。そしてセヴェルを誘う言葉に、もう我慢することなど出来なくなった。
セヴェルが魔王であることを知り、ルルに逃げられそうになっても、もう逃がすことなど出来ないのだ。あらゆる手を使って、彼女の元に訪れる権利をもぎ取り続けている。
そしてルル・ベルーは昏倒したのにも関わらず、自ら昏闇の森の側に生える桃珠花を食べ続けていた。
おかげで彼女は、ただの村娘でありながらも、強い魔力耐性を身に付けていた。これならば、きっと魔力の濃い魔王領でも問題ないだろう。
桃色の美しいお酒を一口含み、ソファーの隣に腰掛けるルルを見下ろした。
拳一つ分離れて座る彼女は、向けられる視線に気づいて首を傾げながらセヴェルを見上げる。お酒によって桃色に色づいた頬と薄っすら開かれた唇に惹かれつつ、そっと彼女を引き寄せる。
直ぐにルルから羞恥と喜びの感情が向けられ、満足のため息を吐く。
「もう少し、な」
ルルを手に入れるにはどうすべきか考えながら、心地の良い時間に浸るのだった。




