月喰狼《クルトー》
モフモフの狼さんと友達になるよ。
キュルルルル……
聞いたことのない鳴き声だ。
甲高く震えるような声、鳥のようでもあるが、音は空からではなく地面から聞こえてくる。
同じ場所からカサコソと草をかき分ける音もする。
姿は見えないが大きいものではないだろう。
火あぶり猫と同じくらいか、あるいは少し小さいか。
それでも、吸血ネズミよりは大きいはずだ。
その推測にはいくらか願望が混じっていた。
腹を満たすほどの獲物はいつ以来か。期待が飢餓感を煽り無意識に足が早まる。
落ち着け、まだあわてるような時間じゃない。
はやる気持ちを抑え、心のなかでクールに呟く。
獲物を逃さぬため、何より命を危険に晒さぬために、今はまだ情報を集めるべき時だ。
クレバーにやれ、私は獣ではないのだから。
いつもと同じように、自分で自分に暗示をかける。
足を止め、深く息を吸い込んだ。
そうして暫し息を止め、1、2、3でゆっくり吐き出す。
四つ足だった頃の名残りだろうか、この身体は力が抜けると前傾姿勢になる癖がある。その動きに合わせて膝をつき、そのまま地面に耳をつける。
瞬間、いくつもの音が集まり始めた。この獣耳の性能は、かつてのものとは比較にならない。周囲に散らばる雑音からでも多くの情報を得ることが出来る。
この足音、二本足か。
四色猿か、いや違う、彼らは地面をこんなに長く歩きはしない。
ならばゴーレムか、だとしたら最悪だ。
あれは強い、しかも食えない。
キュルルルルゥ――
また声がした、やはり知らない鳴き声だ。しかし分かったこともある。これはゴーレムではない、この音は、あの厄介な人形のものではない。
殺り損、という最悪の事態は避けられた。ならば躊躇う理由はない。
距離を保ったまま風下へと回りこむ。気配を殺し、静かに、静かに。
まだ獲物の姿は見えてこない。風に乗って匂いだけが漂ってきた。
この匂い、菓子のような甘い香り。
ああ、間違いない。
姿は見えなくともわかる。何者か知れずとも断言できる。ならば問題は一つだけ、私とあいつどちらが強いか、私にあれを殺せるか否か。
キュル、キュルルル……
鳴き声は止むことなくつづいている。音のする方へと少しずつ距離を詰めていく。獲物に逃げる気配はない。同じ場所をグルグル回っているようだ。
求愛行動でもしているのか、それとも何かを――いや、もういい、もうよそう。どのみちこいつを諦めることなど出来ないのだから。
「行くぞ」
気づかれることを承知で声を出す。
動きからするに、おそらく足は速くない。いざとなったら逃げればいい。
茂みを抜けると視界が広がった。獲物の姿が見えてきた。
ああ、やっぱりだ、間違いない。
彼らはもちろん初対面である。
違うとき、違う場所で生まれた別の種族である。
しかし思考は同調する。
最初に確信したのは彼女だった。そして間もなく彼も知る。動機は同じ、求める結果も同じ、かたや追う側として、かたや待ち受ける側として。
黒い獣は唸り声をあげた。白い幼女は薄ら笑いを浮かべている。言語は違う、されど意味は同じ、ふたつの声が重なった。
「間違いない! こいつ超ウマイ!」
もう腹ペコなのである。
そうして彼らは向かい合い、二つの視線が絡み合う、わけだが、ここにきて黒い獣に疑問が生じる。この獲物、なぜ逃げないのか、なぜ怯えないのか。
黒い獣、月喰狼と呼ぶのだが、黒の樹海においては強者でもなければ弱者でもない。ときに食べたり食べられたり、稀に死んだり殺したり。いわゆる普通、つまりは並の魔物である。しかし、それは強者ひしめく魔境、黒の樹海での話。これが樹海の外ともなれば、彼は紛れもない強者。人里にでも降り立てば、そこは阿鼻叫喚の地獄と化し、死屍累々の惨状が広がるだろう。しかもこの個体、過酷な樹海を生き抜いてきたベテランである。そしてそのベテランは目の前のそれを弱者だと判断した。
だからこその困惑である。
何かがおかしい、月喰狼は考える。
なぜ逃げない、なぜ怯えない。
状況が理解できないのか。それにこの見た目、これではまるで……
「人間の子供……」
あり得ない。ここは黒の樹海、強者のみが生存を許された地、魔が魔を喰らう修羅の森に、ヨダレを垂らした幼女などが――
「……ヨダレ」
ああそうか、そういうことか。そんな見た目をしているが、お前も私と同じなのか。
もはや殺気を隠す必要はなかった。視線で奴を制し、その隙に後ろ脚に力を込める。そうして駆け出そうとした瞬間――戦慄が身体を走った。
やはりこいつ、人の子などではない。
「化け物め!」
咄嗟に動けたのは獣の本能ゆえだろう。恐怖をねじ伏せ一気に間合いを詰める。闘争の日々のなかで、殺すための最適解は身体に深く刻み込まれている。
死ね、死んで私の糧となれ!
殺意に身を任せれば、流れるように体は動く。
わずかに揺らした右前足は牽制、本命は、奴の喉笛を狙った渾身の左ストレート。
「へへっ……」
奴は笑っていた。全裸のままで腕をおろして、ヘラリヘラリと笑っていた。
ノーガード!
「舐めるなよ、服も着てない幼女が!」
咆哮とともに左前足を振り下ろす。奴はまだ動かない。
いや、違う、わずかに右腕が――
それに気づいた瞬間、衝撃が頭蓋を貫いた。
「あしたのために、その三」
崩れ落ちる身体、薄れゆく意識、見下ろす勝者の瞳は赤く、氷菓のように冷たい。
「打たせて打つ、肉を切らせて骨を断つ相打ちの必殺パンチ。相手が全力で打ち込んでくるその腕へ十字型にクロスの交差をさせ同時に打ち返す。カウンターパンチは相手の勢いづいた出鼻を打つため、相手の突進と自分のパンチ力で威力は倍増する。ましてクロスさせた場合、相手の腕の上を交差した自分の腕が滑り、必然的にテコの作用を果たし三倍、四倍の威力を生み出す」
そうか、お前は……
「あしたのためにその3、クロスカウンターだ。テンカウントは必要ないな」
私の意識は、そこで途絶えた。
ぶらん、ぶらーん、揺れている。私が、逆さまで。
頬骨が粉砕しているみたいですごく痛い。
どうやら私は、後ろ足を木の枝に縛られ逆さに吊るされているようだ。
キュルルルル……
ひっそりメソメソ泣いているところに、異音を伴い例のアレがやってきた。音は変わらず鳴りつづけている。しかしそいつの可愛いお口は、少しも動いていなかった。
そうか、あれは鳴き声ではなく腹の虫か。
今さらそれがわかったところで何がどうなるわけでもない。むしろ状況は、より絶望的になったと言える。
腹ペコ、幼女、吊られた獣、こんな簡単な連想ゲーム、答えを聞くまでもない。
しかし、これは……そういうことか。
よくよく周囲を見てみれば、それは何ともあからさまだった。
見つけろ、と言わんばかりの開けた場所、音と匂いを垂れ流し、そこをうろつく迂闊な幼女。すべては囮、すべては罠、あれは獲物を呼び込むための、自身を使ったおとり猟だったのだ。
いや、だったじゃない、今も継続中か。
腹の音、吊るした獲物の血の匂い、敵を引き寄せるいくつかの要素を彼女はそのまま放置している。
樹海で、これをやるのか。
対象を問わない、不特定多数に向けられた罠。樹海の深部でそんなものを張る。一体どれだけ自信があるのか。悪鬼蠢く魔性の森で、強者ひしめく黒の樹海で、何が来ても殺せると、この幼女は言うのだろうか。
どうやらとんでもない化け物に喧嘩を売ってしまったらしい。
悔やんだところですべてはもう手遅れだ。今はひとまず生かされているが、あのヨダレと腹の音だ、彼女の我慢の限界は、たぶんそこまで迫っている。
「……そろそろ食べ頃」
感情のこもらない声で、幼女が何かを言った。やはりこちらの言葉ではない。そしてフランス語とも違う。
ラテン系ではない。英語、ゲルマン系も違う。スラブ……ノンだ。アジア、中国語、ヒンディー、ジャポネ……ジャポ……日本語か!
たどり着いた答えは最後に残った希望の灯火。彼女が自分と同じであるならば、残った記憶と常識が、人食を躊躇わせるはずだ。
そんな期待を胸に幼女を見れば、彼女は簡素な竈に向けて、口から炎を吐いていた。
「鍋、鍋……」
どこからか持ってきた亀の甲羅を、幼女が竈の上に置く。小型のゾウガメサイズのそれは、千パーセントの確率でこの身を茹でる地獄の釜だ。
「次は水……」
幼女は着々と調理の準備を進めている。しかしこの手順、もしや解体しもせぬままに、丸ごと鍋に突っ込むつもりか。
お嬢さん、ちょっとものぐさすぎますよ。
せめて殺して茹でて欲しい。
ささやかな願いをあざ笑うかのように、幼女はマーライオンよろしく、口からドバドバ水を出し始めた。
何だこの生き物は――
口から火を吐き水を吐く、スッポンポンの白い幼女。
樹海の暮らしはそこそこ長いが、こんな奇妙な生物は今まで一度も見たことがない。
いかん、思考を切り替えろ。そんなのは今考えることじゃあない。
釜茹でまでのカウントダウンはすでに始まっている。幼女の生態なんてものは、生き残ったその後で、ゆっくりじっくり考えればいい。
「……へ、ヘイ、ロリータ」
生き残るぞ、と決意してなんとか発したその声は、恐怖のせいか、怪我のせいか、思った以上にか細かった。
「……ん」
それでも幼女は気づいてくれた。そうしてのんびりトコトコとこっちに向かって歩いてくる。
美しい幼女だ。髪は白く、肌も白い、そして瞳だけが違う色をしている。
「ヘ、ヘロー、リトゥガール」
人形じみた造形に暫し呆然とするが、見とれている場合ではない。獣の顔で笑顔をつくり明るい声で語りかける。
そうだ、意思の疎通さえ出来れば……
勝算は十分にあった。本能に引きずられてはいるものの、かつての習性や倫理観は己のなかにいまだ根強く残っている。そして彼女もまた、それを持っているはずだった。言語を操り、調理をする、それは理性がある証拠、人間ならざる者のなかに、彼女も人間を残しているのだ。
ならば対話は可能、いやむしろ、友人くらいには容易くなれるかもしれない。
生命の危機は去っていない。
しかし私は高揚していた。
考えてみれば、これは奇跡のような出会いではないか。自分たちのような存在が、世界にどれほどいるかはわからない。でもきっと、そんなに多くはいないはずだ。それがこうして巡り会い、不幸なことに殺し合い、そして今は和解しようとしている。
そのあとは、一緒に冒険したりするのだろう。
ああそれは、なんて素敵な物語だ。何しろ相手はあの幼女。強くてクールでチャーミングな、樹海の白い妖精だ。
浮かれた気分のまま、笑顔で幼女に語りかける。大事なのは、彼女に認識させること。それさえ出来ればあとはもう簡単だ。なんせ二人は地球にいた、同じ世界の同胞なのだから。
「ヘイ、ロリータ。テュ、ニ、ニホン、ニホンジンネ……」
「ん?」
「ア、アナタ、ニホンジン、ワタシ、フランスジン、OK?」
「……ああ、N’importe quoi アーンド、ファックユー」
「え? な、なに? Fuck? お前……今、フランス語」
まさか、こいつ……
「気づいていたのか」
すべてを知りながら、私を殺して食おうとしていたのか。同じ世界に住んでいた、自分と同じ人間を。
「……骨の髄まで魔物ということか」
彼女にはもう人の心は残っていなかった。心までも怪物に成り果てていたのだ。
「……魔物だと?」
何かを言った幼女の顔が、わずかに歪んだ気がした。
これは、怒りか。
何が彼女を不快にさせたのか、私にはよくわからない。しかしそれも、もはやどうでもいいことだった。どうせ泣こうが喚こうが、こいつは私を殺すのだから、そうしてモグモグ食べるのだから。
でもせめて……
「せめて楽に殺して欲しい」
「ダメ、薄汚い魔物は、苦しんで死ね」
口から出てきたその言葉は、きっと救いのないものだ。
今日、私の二度目の人生が終わった。
フランスの王狼に因んで、自らをクルトーと名乗った魔物。彼が何者であったのか、それを知るものは誰もいない。
あれれ、狼さん死んじゃいました。
そしてこの話は……伏線です!
回収されるのは、ずっと先になるはずだよ。