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5-1

 シュトルム伯爵家令嬢、カミラ・シュトルムは破滅を呼ぶ女である。


 モンテナハト卿の心を惑わし、アインストを陥落させたのみならず、ついにブルーメまでも毒手を伸ばした。

 かの悪女はブルーメの人々に甘言を吹き込み、暴動を起こし、禁忌に染めさせた。禁欲と敬虔のモーントンの伝統は、悪女カミラの前に破り捨てられたのだ。

 正しかった人々は古い誓いを忘れ、その場限りの楽しみに溺れた。そしてそれを、悪とすら思わないほど狂わされた。

 人々は安易な道に堕ちやすいもの。カミラの示すはりぼての享楽に、モーントンの人々は心惹かれ始めている。


 もはや捨て置けはしない。

 やはり、最初からのたわ言など聞かなければ良かったのだ。


 〇


 食堂と厨房をつなぐ配膳所。半地下に位置する物置じみたその空間には、食器棚が隙間なく並ぶ。見るからに高価な食器や無数のグラスは、見るものを圧倒する。慣れない年若いメイドにとってはなおさらだ。

 真白く精錬された塩や砂糖が、ただの砂袋のようにまとめられ、部屋の片隅に置かれている。珍しい香辛料、辛子にジャムに蜂蜜の瓶。厨房から出された料理は、ここで味付けを追加され、屋敷の主人であるアロイスに供されるのだという。

 アロイスへ食事を供するのは、もっと上の身分の者たちの仕事だ。配膳所をおずおずと眺める、新米メイドの少女の仕事は、メイド頭から言いつけられたとおりの皿を探し出すことだった。

 目当ては青みがかった無地の深皿。大きく丈夫だが、高貴な人の食卓に上がるには、いささか貧相と言えよう。しかしこのたび、良い絵付師が見つかったということで、皿のいくつかに装飾を施してもらうことになった。

 少女が探している皿も、その絵付けをされるうちの一つだった。


 割っては大変と、少女は恐る恐る探し回り、どうにかしてその皿を見つけ出した。

 長らく使われずにいたせいだろう。皿は食器棚の上段。彼女が手を伸ばしても届かない場所に鎮座していた。

 背伸びをしても、指先がどうにか触れる程度。踏み台らしいものも見つからない。

 どうしようかと途方に暮れていた時、少女の背後から誰かが手を伸ばした。

 少女が必死に掴もうとした皿をやすやすと手に取ると、その誰かは少女に向けて声をかけた。

「どうぞ」

 言いながら、誰かは少女に皿を差し出す。少女は皿を受け取ると、慌てて頭を下げた。

「あ……ありがとうございます」

「たいしたことじゃないわ」

 ふ、と笑うように声に、少女は顔を上げた。

 親切な人を目に映し、少女は一瞬、呼吸を忘れた。危うく、受け取ったばかりの皿を取り落とすところだった。

「――――カミラ様!?」

 目の前にいるのは、モーントン領では珍しい黒髪の女。細く背が高く、目つきのきついその姿は、間違えるはずもない。誰もが知る恋物語の悪役にして、屋敷の主人であるアロイスの花嫁候補。未来の女主人たる、カミラ・シュトルムである。

「せっかく取ってあげたんだから、落とさないでちょうだい」

 つんとした声でそう言うと、カミラは少女を睨みつけた。少女がこくこくと頷けば、それで気が済んだらしい。少女から顔を背け、一人厨房に入っていってしまった。


 ――やっぱり、噂どおりだ……。

 少女は一人、渡された皿を抱きしめたまま、消えていったカミラの背中を呆然と眺めていた。

 声音は鋭く、突き放すようだし、顔つきも不機嫌そうで、威圧感がある。高慢そうで、意地悪そうで、気の弱い人間には近寄りがたい。どうしてもしり込みしてしまう怖さがある。

 王都では王子の恋人リーゼロッテを苛め抜き、王子に取り入ろうとした卑劣な悪女。モーントン領へ来ると聞いたときは、誰もが恐れ、忌み嫌ったものだった。

 モンテナハト邸でも同じ。カミラがなにかするたびに、すぐさま使用人たちの間に噂が広まった。

 そしてここ数か月、彼女には新たな噂がある。


 ――噂どおり、噂ほど恐ろしい人じゃないんだ。


 〇


 不慣れなメイドの少女を後にして、厨房へなにをするかと言えば決まっている。

「私に菓子作りを教えなさい」

「人に物を頼む態度じゃねえな」

 不遜なカミラに、ギュンターは苦々しさをあらわにした。夕食の仕込みをする手は止めないまま、カミラに険しい顔を向ける。

 しかし、カミラの態度は変わらない。腰に手を当て胸を張り、自信より背の高いギュンターを見下ろすように見上げている。

「頭を下げても胸を張っても、やってもらうことは変わらないもの。それに、もしも教えてもらえないのなら、頭だって下げ損じゃない」

「その性格どうにかならねえのかよ。だいたい、お前菓子は作らないって、前に言ったじゃねえか」

「前は前だわ。今は気分が変わったのよ」

 やはり料理をする身として、菓子の一つも作れないのは肩身が狭い。それに冷静に考えてみれば、わざと下手な味のまま誰かに食べさせようだなんて、料理人の風上にも置けない行為だ。どうせなら腕を上げて、食べた相手を驚かせてみせたいではないか。

 とまあ、そういう理屈なのである。

「……菓子作りなら、クラウスの方が向いているだろう」

「あいつに教わるのは癪だわ!」

 ギュンターの言葉に、カミラは断固首を振る。

「それに、あれはちょっと上手すぎるわ。あんまり実力に差があると、教わるのも難しいでしょう。あなたくらいがちょうどいいのよ」

「ああ?」

 聞き捨てならない言葉に、ギュンターの手が止まる。野菜を切っていたナイフを握りしめ、凄むようにカミラを見た。完全に喧嘩の構えである。

「お前、俺が料理長だってことを忘れてるな? 菓子はクラウスに任せていたが、料理長が作れないと思うなよ。吠え面かかせてやる!」

「あなたこそ、私の身分を忘れているわ! 偉そうに、そんな武骨な手で、どんな菓子が作れるっていうの!」

「ほざいてろ! 目に物を見せてやる! 来い! 一から十までてめえの見本だ!」

 ギュンターはカミラを手招くと、夕食の仕込みもそこそこに、菓子作りの道具を取り出した。

 荒っぽい菓子の修行になりそうだが、もちろんカミラは受けて立つ。


 アロイスに、不味いものを食べさせるわけにはいかないのだから。

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