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4(3)-13

 自分よりも大きな体から振り下ろされる拳は、愚直なほどに単調だった。

 馬鹿の一つ覚えみたいに、ただ力任せに殴られる。だが、瑕疵のない良き体であれば、それだけで十分な威力を持つ。

「――――あんたは!」

 顔をかばう腕の上に、フランツが殴りつける。弟の力に、クラウスの細い腕は折れるのではないかと思うほど軋んだ。

「あんたは、いつだって俺の欲しいものを奪っていく!」

 幼い日の愛情。親の期待。周囲の信頼。好きな娘を奪ったこともあっただろう。

 顔も良くて、教養もあり、知恵が回る。才能にあふれた兄の姿を、弟がどういう目で見ていたのかも、クラウスはよく知っている。

「これ以上、なにが欲しいんだよ! どれだけ俺から取り上げれば気が済む!?」

 フランツは、決して劣った人間ではない。健康な体と、勤勉さを持つ。よく努力をする凡人だった。少しばかり性格はひねくれているが、それさえも極端にゆがんでいるわけではない。常識的であり、まんべんなく優秀で、だからこそ突出したところのない男だ。

「もう、十分だろう!? あんた、なんでも持ってるだろう!? 俺には、しかないのに!」

 フランツがクラウスに勝るのは、その健康な体くらいだった。幼いころからずっと「逆だったらよかったのに」とささやかれていた。十まで生きられないはずのクラウスと、病気一つしないフランツ。二人の体が、逆ならよいと思われ続けてきた。

 それでも、フランツが兄を憎み切らず、耐えることができたのは、クラウスが十で死ぬと思っていたからだ。今はクラウスに向いている視線が、いずれは自身に移るだろうと、思うことができたからだ。

 なのに――。

「なんで生きているんだよ! どうして今さら現れた! どうして!!」

 恨みを叫びながら、フランツはクラウスを殴りつける。感情任せのその声は、悲鳴のようにも思われた。

「俺がこのために、どれだけのことをしてきたと思っているんだ! どれだけ必死になってきたと持っているんだ! それさえもかっさらうのか――――兄貴ィ!!」

 クラウスの代用として跡継ぎに据えられ、クラウスに見劣りしないよう、フランツは必死に努力をしてきた。だが、どれだけ努力を重ねても、フランツがクラウスに追いつくことはできない。両親だって親族だって、使用人たちでさえ、みんなクラウスばかりを見る。フランツの懸命さに気付きもしない。あくまでも彼は、クラウスの身代わりに過ぎなかった。

 それでも、フランツは跡継ぎに固執しないわけにはいかない。それだけが、幼少期の彼へ与えられた両親の目であり、ただ一つの自尊心なのだから。


 フランツはクラウスへの劣等感のかたまりだ。クラウスを羨み、妬み、ある種憧れ、憎んできた。

 そんな哀れな弟の姿を、クラウスはよく知っている。

 クラウスもまた、だからだ。


「俺だって、望んで天才になったんじゃねえよ」

 吐き出すようにクラウスは言った。顔をかばう腕をどければ、興奮したフランツの顔が見える。フランツは、あおむけに倒れたクラウスに馬乗りになり、もう何度殴ったかわからない拳を握っていた。

 フランツの腕は筋張っている。程よい筋肉に引き締まっており、健康的な血色をしている。クラウスの襟首をつかむもう一方の手は、若者らしく力強い。

 その襟首を、クラウスは掴み返す。クラウスの腕は細く、女性的と言えば聞こえはいいが、言ってしまえば貧弱だった。肌は白く、血の気は少ない。体力とも腕力とも、無縁だった。

「才能が欲しかったわけじゃない。やれるんだったら、いくらだってお前にくれてやったさ……!」

 口の中に血の味を感じる。喧嘩をしたのも、殴られたのも、クラウスにとってははじめてだ。ずっと深窓で、大切にされ続けてきたせいで。

「羨んでるのが自分だけだと思うなよ……! 俺がどんな目でお前を見てきたか知っているか!」

 長く歩くことのできない体。十まで生きられない貧弱な命。フランツには、あっという間に身長を抜かされた。クラウスの体は、死を乗り越えた今でも弱いまま。食べても太れず、筋肉も付かず、病にもすぐに倒れる。

「外を走り回るお前が! 死を恐れずにいられるお前が! 寝る前にいつも、『明日は目覚めないんじゃないか』と怯えずに済むお前が、どれほど羨ましかったかわかるか!!」

「知ったことか!」

 フランツが拳を振り上げる。一撃一撃は重くとも、大振りで単調なその殴打の軌跡は――予測するにたやすい。特に、何度も殴られた今ならば、なおさらだ。

「才能なんて捨てても、俺は健康な体が欲しかった! 外を歩きたかった。本物の花を見たかった。自分の町を、窓からじゃなく、その場で見ていたかった!」

 フランツの拳は空を切る。手ごたえのない空振りによろめいた隙をつき、クラウスはフランツの体を横に倒した。馬乗りになっていたフランツが倒れ、形勢が逆転する。倒れた拍子に頭を打ったのだろう、フランツは痛みに顔をしかめ、しばし呆気にとられたように瞬いた。

「お前が外を駆ける姿を、窓からずっと見ていたよ」

 同じ兄弟なのに。どうしてこれほど違うのか。恨んだ。妬んだ。自分を妬むフランツを、ことさら憎んだ。幸いにして生き残ったけれど、あの十年の日々は、クラウスもフランツも歪ませたままだ。

「羨ましくて、羨ましくて仕方がなかった。自分がどれほど恵まれているか気が付かないお前が妬ましかった。窓から見るお前に憧れていた」

 窓の外。窓越しの太陽。外の空気を感じることもできず、ベッドの上に横たわってみている日々。父と母に連れられて、ブルーメの町へ視察に下りるフランツを、クラウスは何度も何度も見送った。

 彼らの向かう町は、春一番の花が咲き誇る。真っ白な花吹雪。クラウスの憧れを映す白い花。

「俺にとっての憧れの花ゼーンズフトは、ずっとお前だったんだ――――!」


「……だから、どうした」

 クラウスの下。のしかかられたまま、フランツが押し殺した声で言った。打ち所が悪かったのか、形勢を返されたことに驚いたのか。クラウスを睨む視線は代わらないものの、先ほどまでより少しだけ冷静になっているようだ。

「お前、親父たちに認められたかったんだろう? 自分のしてきたこと、褒められたかったんだろう?」

「だから、どうした!」

「俺が認めてやるよ」

 フランツの怒声に怯まず、クラウスは言った。

「お前を羨んで、お前をずっと見てきたんだ。お前がどれほど頑張ってきたか、俺は知っている。良いところも悪いところもわかっている。お前の力が発揮できる場を作ってやる」

 フランツはクラウスを睨みながら、口を開く。だが、何か言いたげなその口は、なにも発することなく閉じられた。言葉にならない感情が、荒い呼気として吐き出されるだけだ。

「伯父さんなんてやめて、俺の下につけよ。伯父さんには、お前はもったいない。あの人、お前を駒としか見てないぜ」

 野心家で無謀な伯父のこと。彼は、フランツを自分の傀儡とするつもりだろう。もしもフランツが跡継ぎになれなければ、もう用済みである。

 それでも、フランツにとっては自身の存在意義を見出してくれる相手であった。だからこそ、伯父の手足となっていたのだ。たとえ不本意だとしても。

「お前もこの町が好きだろう? 伯父さんと一緒だと、アインストに作り変えられてしまうぜ。そんなの、お前だって望んでないだろ」

「……兄貴」

「俺の片腕になれよ、フランツ。お前には、俺にできないことができるんだ」

 深い息を吐き、フランツを見ながらクラウスはそう言った。

 フランツは唇を結び、クラウスの真意を探るように見つめ返す――――が、それも一瞬のことだった。

 フランツの目が、驚きに見開かれる。同時にクラウスは、自信の首筋に、ひやりと冷たいものが当たるのを感じた。


「そこまでだ、クラウス」

 苦々しい老いた声が、空き地に響く。

「まったくお前は、どこまでも邪魔な男だ」

 空地に足を踏み入れたのは、尊大で大柄な、レルリヒらしくない武骨な男。

 むき出しの野心の顔に浮かべた、忌々しい伯父ルーカスの姿を、しかしクラウスは見ることはできない。フランツに馬乗りになったまま、首をひねることさえ難しかった。


 理由は簡単。

 空地にいた自警団の一人が、クラウスの首筋に剣を突きつけているからだ。

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