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物悲しいフィーネの音色は、無粋な声にさえぎられた。
「――――げっ、フィーネ! なんか聞こえると思ったら、お前か」
唐突に割り込んできたその声に、フィーネは思わず、フルートから口を離した。
顔を上げれば、見覚えのある少年が、階段から下りてくる姿が映る。
細身で、少し神経質そうな顔立ちには、苦々しい表情が浮かんでいる。皮の丈夫そうな鞄を肩から下げ、その少年は地下へと駆け込んできた。
「オットー!」
信じられない気持ちで、フィーネは声を上げた。オットーは不機嫌そうにフィーネの顔を一瞥すると、「おう」と短く、返事にもならない返事をする。
「クラウス様たちまで。なんだ、絶対誰もいないと思ったのに」
オットーは眉をしかめると、慣れた足取りで地下の隅まで行き、腰を下ろす。地下の隅は、いつもの練習でオットーが陣取っている場所だ。彼はそこで、久しぶりの挨拶もなく、感慨もなく、いつものように鞄を広げ、楽器を取り出した。
だが、フィーネはいつも通りとはいかない。この数日間、地下はフィーネただ一人だったのだ。
「オットー、どうして? もう誰も来ないと思ったのに……!」
「はあ? そうしたら、またお前に差を付けられるだろうが!」
負けず嫌いな目が、フィーネを睨みつける。そうまで言われても、ピンとこない顔のフィーネに、オットーは頭を掻いた。
「音を出せるようになったのも、音階を吹けるようになったのも、いつもお前が先だっただろ。だから、外出が許されてすぐに来たんだ。なのに、またお前が先にいるんだから……」
口をとがらせるオットーに、フィーネは瞬いた。思わず頬をおさえる。なぜだろう、笑ってしまいそうだ。
なのに、笑い声を上げようとしたフィーネを、また別の声が邪魔する。
「ほら、フェアラート、おいでって」
「ディータ、ちょっと、私は別に……」
ためらうような女の声と、明るいお調子者の声。眉をしかめるフェアラートと、その腕を引くディータだ。
頬に手を当てたまま、見つめるフィーネの視線に気が付くと、ディータはちょっと照れたように頭を掻いた。
「いやあ……なんか、みんな入っていくのが見えたから。俺も気になって、ちょくちょく様子見にきてたんだけど、一人じゃ勇気出なくてさ」
大きな体をすくませながら、ディータは頬を赤くする。口元がむずむずと動かしながら、足先は軽快に――リズムをとるように、床を叩く。
「自警団は怖いけど、なんかこう、落ち着かなくて。気が付いたらいろんなものを叩いちゃってるんだ」
「……あなたたち、馬鹿ばっかりだわ!」
ディータの手を払い、フェアラートは腕を組んでそう言った。つんと澄ましたその横顔を見て、ディータはにやりと笑う。
「そんなこと言って、フェアラートだって気になって様子を見に来てたじゃん? ずっといたの、俺知ってるよ。俺も何度も来てたからね」
にやにや笑いのディータの言葉を否定せず、フェアラートは「ふん」と鼻を鳴らした。居心地の悪そうな顔をしていても、彼女が素直でないことを、フィーネもみんなも知っている。
フィーネのおさえた頬が、ぽかぽかと暖かくなる。冷たい地下は、こんなに狭くて、温かかったかしら?
「ああ、やっぱり。みんな来てる!」
最後に飛び込んできたのは、今日一番に明るい声だった。
「ヴィクトル、私の言った通りだったでしょう!」
「ミア、ま、待って。……本当に?」
「私が嘘をついたことがある?」
軽快なその声と共に現れたのは、ヴィクトルの婚約者であるミアだ。彼女は満足そうに地下の人々を見回すと、階上へ向けて声を上げた。
「降りてくればわかるよ。あなたの友達なんだから、自信を持ちなさい!」
ミアの呼び声に誘われて、おずおずと下りてくるのはヴィクトルだ。大きめの四角い箱を小脇に抱え、肩を縮めるヴィクトルの背を、ミアは強く叩いた。
「しっかり!」
「う、うん。――――ええと」
そう言って、ヴィクトルは地下にいる人々を、順に眺める。フィーネ、オットー、ディータにフェアラート。それからクラウスたち。不安の入り混じるその顔には、痛々しい殴打の跡が残っている。
「……みんな、来てくれたんだな。正直、あんなことがあって、誰も来ないと思った」
ヴィクトルは視線を伏せ、息を吐く。肩は重たげで、頭はうつむきっぱなしだ。
「もともと俺の祝婚歌だったし、責任感じてたんだ。親父にも殴られたし――――迷惑かけてごめん」
思いがけず殊勝なヴィクトルの様子に、フィーネたちは顔を見合わせた。
「迷惑だなんて――」
「それでさ」
言いかけたフィーネの言葉をさえぎり、ヴィクトルは続けた。うつむいたまま地面に膝をつき、抱えていた箱を下ろす。
自然、注目が箱に集まる。黒く塗られた革張りの箱は、見るからに高級そうだった。箱の側面には、仰々しいくらいの立派な留め具が二つ付いている。
「親父に言われたんだ。『見つかったら、迷惑を被るのはお前だけじゃない。人に迷惑をかけるようなことは二度とするな』って」
ヴィクトルは、その留め具を慎重に外す。それから、どこか恭しい仕草で、黒い箱をそっと開けた。
「――――『こういうことは、ばれないようにやるもんだ』って」
木箱の中に入っているのは、見るからに使い込まれた――しかし、よく手入れされたバイオリンだった。
ヴィクトルはバイオリンを取り出すと、ようやく顔を上げた。
「次はもっと上手くやる。もう迷惑はかけない。……だから、また一緒にやってくれるか?」
その顔に浮かぶのは、いかにもブルーメの町の人間らしい――不敵で、いたずらっぽい表情だった。
「――――本当に、呆れた町だわ」
わっと盛り上がる、ミアを含めた六人の様子を、カミラは苦笑しながら眺めていた。
そもそもこの店は、ヴィクトルの実家のものなのだ。その地下に、ヴィクトルたちが来る前から楽器が置かれていた、というのも妙な話。その楽器は、いったい誰のものだったのか。この地下は誰が使っていたのか。考えてみれば、すぐにたどり着くことだった。
呆れるけれど――面白い町だ。きっとヴィクトルたちだけではない。町の誰もが、どこかに秘密を抱えているのだろう。
――この町だから、クラウスみたいな人間が育つわけね。
良くも悪くも。そんなことを考えながら、カミラはなにげなくクラウスに目を向け――。
その表情にぎょっとした。
クラウスは、六人の姿に目を奪われていた。
日頃は軽薄で、無気力そうな瞳が輝いている。感情が昂っているのか、頬も少し赤い。その横顔は、嬉しそうで――どこか羨ましそうだ。
「俺、ちょっと感動してる」
誰に言うでもなく、クラウスはそう言った。
それから、顔を引き締めるように、一度ぎゅっと目を閉じる。それでも、表情はあまり変わらない。
「こんなの、隠しておくのはもったいないでしょ」
「クラウス?」
いぶかしむカミラを差し置いて、クラウスは一人息を吐く。それから息を吸い込んで、「おーい!」と六人に向けて声を上げた。
「せっかくなんだから、『ばれないように』なんて言うなよ!」
クラウスの声は、ひどく楽しそうだった。それでいて――――いかにも悪い事を考えていそうだった。ヴィクトルなど目ではないくらいに不敵なその表情は、いたずらを考える子供そのものだ。
「どうせなら、演奏会をしようぜ! みんなに聞かせてやろう! ――――俺の、跡継ぎ決定記念だ。盛大な祝祭をしよう!!」
それはまさしく、モーントン領の禁忌。あの温和なアロイスでさえ目を剥き、険しい顔でクラウスを見ている。
本当に、呆れた男である。