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アロイスとの関係になんら改善はないまま、ヴィクトルたちの腕前だけが上がっていった。
オットーとフィーネは音が出せるようになり、とりあえず音階を順に弾けるようになった。ディータは強弱を覚え、フェアラートは喉から声を出すのをやめた。ヴィクトルに至っては、簡単な曲なら弾けるようになった。
誰か一人、一つできることが増えるたび、仲間全員で喜ぶ。そして、負けてたまるかといっそう練習に力を入れる。いい仲間たちだと、カミラは思った。クラウスが教えたくなるのも、わかるような気がする。
だが、そんな平和な――あるいは逃避的な日々は、突然に終わった。
よく晴れた、しかし凍るように空気の冷たい日。クラウスたちと連れ立って、いつものように町に出たとき、カミラは大通りが騒がしいことに気が付いた。
冬の寒さもあって、めったに外に出ない人々が集まっている。ざわめき声は明るいものではなく、なにか不穏な気配を感じさせた。
行ってみよう、と言うクラウスを否定する者はなく、全員で大通りの騒ぎに駆けつけた。
騒ぎの中心にいたのは、武装した身なりの良い男たちだった。
いかにも屈強そうな男たちと、泣き叫ぶ声。凍り付いた地面に倒れる――――見覚えのある青年たち。
「――――ヴィクトル!!」
カミラの声は、周囲のざわめきにかき消された。「かわいそうに」「馬鹿だねえ」「自業自得だ」「いや、やり過ぎだ」
無数の野次馬の声に囲まれながら、カミラは呆然とした。
倒れているのはヴィクトルとオットー、それにディータだろうか。オットーとディータは男たちの手によって、地面に体を押し付けられ呻いている。ヴィクトルだけが拘束されず、半身を起こすことを許されている。おかげで、彼の顔に殴打の跡があるのが良く見えた。
フィーネとフェアラートは、倒れるヴィクトルたちの傍で、後ろから羽交い絞めにされていた。さすがに殴られてはいないらしい。羽交い絞めにされたままフェアラートはうつむき、フィーネはすすり泣いている。彼女らの足元にあるのは、破り捨てられた紙の束――おそらくは、楽譜だろう。
「フランツの自警団だ……!」
クラウスがつぶやく。フランツの自警団といえば、ヴィクトルたちが恐れる、悪名高い私刑集団だ。娯楽を取り締まり、見せしめに暴行を加えるという。
ならばヴィクトルたちは、地下のことを知られてしまったのだろう。たしかに彼らは、町で禁止されていた音楽をしていた。
――どうして見つかったの!?
誰かの密告か――そう考えかけて、カミラはすぐに首を振る。
もともと、騒音の噂も立っていた。うかつな青年たちは、ときどき地下室の入り口を閉め忘れることもあった。自警団が怪しみ、捜査する余地はある。
密告であるならば、ヴィクトルたち五人か、カミラたち四人の中に犯人がいることになってしまう。仲の良い五人が仲間を裏切るとは思えない。となると、カミラたちのうちの誰か。
アロイスはクラウスの父ルドルフに頼まれ、クラウスの監視をしていた。監視ならば、報告が必要だ。地下室のことを漏らす可能性が一番あるのは、アロイスだろう。
――いいえ。
だからこそ、カミラは密告の可能性を否定する。
――アロイス様がそんなことをするはずがないわ。
今は気まずくても、対面して言葉を交わせずとも、人となりは変わらない。カミラはアロイスを信じられる。
「だ、だめだ! やめてくれ!!」
ざわめきの中心で、悲鳴のようなヴィクトルの声が上がる。
カミラははっと顔を上げた。視線の先には、膝をついたヴィクトルと、自警団の男がいる。男の手には、ヴィクトルの使っていたバイオリン。その首を掴み、振り下すところだった。
無遠慮な力で、バイオリンが地面に打ち付けられる。乾いた木の音が、痛みすら感じるほど悲痛に響く。
ヴィクトルの悲鳴を聞くよりも早く、カミラは野次馬の輪から駆けだしていた。
「カミラさん!?」
アロイスの慌てた声が背後から聞こえる。だが、それでカミラが立ち止ったことなんてない。
「――――なんてことするの!」
突然飛び出してきたカミラに、自警団の男が振り返る。
「誰だ――――いや」
男はいぶかしげにカミラに視線を向けると、まじまじと見つめた。それから、少し驚いたように目を見開く。
「あなたは……カミラ様で?」
「私がわかるのね」
「ああ、いや、有名なお方ですから」
男は失言を誤魔化すようにそう言った。
名前は知れても、カミラの顔形までは、庶民の間には知られていない。せいぜい黒髪の、きつい顔立ちの女であることくらいだろうか。ヴィクトルたちも、カミラの顔は知らなかったのだ。
「ところで、いったいなんのご用でしょう。こんな騒ぎに首を突っ込まれるのは、あまり推奨いたしませんが」
「彼らを離しなさい」
「できかねます。この者たちは、娯楽という町の禁則を犯しました」
カミラの断固とした言葉にも、男は澄ました顔だった。カミラをカミラと知っても、恐れているようには見えない。堂々とした態度でいられるのは、後ろ盾があるからだろうか。
「人を殺したわけでもないでしょう! 地面に押し付ける必要も、殴る必要もないわ!」
「決まりを破ることは、ナイフで刺すよりずっと多くの人を殺します」
「ただの音楽よ!? 演奏することがそんなに悪いの!? 軍隊の規律を破ったわけでもないのに!」
噛みつくようなカミラに、男はふと口を曲げた。笑い顔にしては、不愉快な表情だ。
「どうやらカミラ様は、娯楽に対してご理解があるようですね」
「なによ」
「さすがは、恋という娯楽に身を捧げたご令嬢です。それでこの者たちをお庇いになるのでしょう。お優しい方だ」
褒めるように男は言った。だが、明確な嫌味だった。
「ですが、娯楽は浸かりすぎれば、正常な判断ができなくなるもの。カミラ様の優しさには感服いたしますが、この町の火種はこの町で処理しなければなりません。さもなければ、要らぬ争いが起きる恐れがあります」
「こんなことで、あなたの町は争いが起こるっていうの!?」
「ええ」
持て余したようにバイオリンを握りなおしながら、男は表情も変えずに言った。
「珍しくはない話でしょう。恋に溺れて、罪のない人間を陥れようとした令嬢だって、世間にはいらっしゃるのですから」
「…………なに」
「罪を暴かれてもなお、未だに恋しい相手が忘れられずにいる。代わりにあてがわれた結婚相手を利用して、恋する相手を再び、力ずくで奪い取ろうとしている――なんて噂のある方もいらっしゃるくらいです」
男が呼んだカミラの名前が、周囲を取り巻く群衆の耳に、少しずつ広まっていく。
カミラ・シュトルム。
ユリアン王子に懸想し、清廉潔白なリーゼロッテを貶めた最低の悪女。
罰としてモーントン領に押し付けられた厄介者。
さざ波のように、不名誉なカミラの評判が伝わっていく。
「……私のことを言っているの?」
「いえ。ただ、よくある一例として、昔からあるお話をしただけです。まさか、心当たりがおありで?」
底意地の悪い話しぶりに、頭が熱くなる。ひどい辱めだ。
たしかに、男は一言もそれがカミラであるとは言っていない。世間一般に転がる、よくある愛憎劇だと言われればそれまでだ。
反論をすれば、男の語る令嬢がカミラであると認めることになる。黙っていれば、男は迂遠に、いつまでもカミラを貶めるだろう。
「そんなみじめな醜態をさらす前に、叶わぬ恋は早々に捨てること。それと同じです。禁じられた娯楽は、諦めること」
周囲には人だかりがある。アロイスだっているはずだ。王子を忘れられないカミラに、傷つくと言ったアロイスを思い出すと、反発の言葉が喉の奥で止まってしまう。
悔しくてたまらないのに、頭の一点で、妙な自制心がカミラを引き留めてしまう。
「恋も娯楽も、早々に忘れてしまうのが賢い人間です。そうでしょう、カミラ様?」
――忘れられるくらいなら。
カミラは両手を握りしめた。唇を噛んで男を睨むが、言葉は出ない。
アロイスさえいなければ、カミラはいくらだって言い返していた。叶わぬ恋も醜態も、未だにユリアン王子を忘れられないことだって、この男に恥じる必要はどこにもない。胸を張って、だからどうしたと言ってやれるのに。
アロイスさえ――そう思いながら、カミラは周囲の人々に視線を向けた。
無意識にアロイスを探していたが――――いない。アロイスがいたはずの場所には、クラウスとニコルだけが、妙に慌てた様子で立っていた。
――アロイス様?
抱きかけた一瞬の疑問はすぐに消える。
アロイスがどこに行ったのか、カミラには探す必要はなかった。
「彼女への侮辱を、それ以上口にするな」
カミラの肩に手が掛けられる。
後ろに強く引かれ、思わず足を引くカミラの代わりに、見知った背中が前に出る。
「彼らも開放してやれ。町中での暴力沙汰も、許されてはいないはずだろう」
「今度は……アロイス様ですか。野次馬は感心いたしかねます」
自警団の男が、いくぶんかこわばった顔でそう言った。カミラ一人程度なら、いくらでも対処のしようはあっただろうが、さすがの領主となると怖気付いたようだ。他の自警団たちも、拘束の手が緩んだらしい。ディータやオットーが顔を上げ、不安そうに成り行きを見守っているのが見えた。
「それに、これは暴力沙汰ではなく、規則を破ったものへの指導です。あまり口をお出しになりませんように。ブルーメのことは、ブルーメで解決いたしますので」
「そうもいくまい。ブルーメはモーントン領の一部だ。なによりお前は、彼女を侮辱した」
カミラを背に隠しながら、アロイスはそう言った。言われた男は、少しばかり動揺したように首を振る。アロイスがカミラをかばうとは、思っていなかったのだろう。
「カミラ様を侮辱など。私はただ、一般論を言っていただけで……。それともアロイス様は、いずれは奥方になられるカミラ様が、未だユリアン殿下に懸想していらっしゃるとお思いで?」
男の言い方は卑怯だ。認めてしまえば、アロイスは妻――となる予定の女の心を得られない、情けない男と知らしめることになる。世間にはもちろん、そんな夫婦などありふれているが、それを他人に悟られることは、貴族にとっての恥である。
アロイスは首を曲げ、カミラを一目見やった。まぎれもなく腹を立て、男を睨むカミラを見て、短く息を吐き出す。
それから、「その通りだ」と頷いた。
「彼女は王都を追放されても、殿下を忘れられない、愛情深い人だ。それをみじめと言い捨てることは、彼女の心をあまりにも貶めている」
「本気でおっしゃっていますか、アロイス様……!」
男は困惑したようにつぶやいた。信じられないものを見るような目で、アロイスを見つめる。
世間一般の噂では、カミラは悪女。モーントン領に来てからも、アロイスの容姿を理由に結婚を先延ばしにしているような、わがまままな女だ。使用人たちからの評判も悪い。
そんな女をどうしてかばうのか、男は理解できずにいるらしい。
「叶わぬ恋を早々に捨てられないのは、私も同じこと。そう言う意味では、私は娯楽を捨てられない彼らと同罪。彼らを罰するならば、私にも罰が必要だろう」
「まさか、アロイス様を罰するなんて……」
「ならば、彼らを解放することだ」
ぐ、と男はうなった。他の自警団たちが、おろおろした様子で男に目を向ける。どうやら彼が、この場の指導者だったらしい。
男は顔をしかめ、目を閉じた。それから深く息を吐き、屈辱的な声を絞り出す。
「……仰せの通りに――――解放しろ!」
男が言うと、自警団員たちがそれぞれ、ディータたちの拘束を解いた。
〇
自警団たちが去っていくと、人だかりも少しずつ減っていった。
「……あの、ありがとうございます」
ヴィクトルは、アロイスとカミラに向けて、絞り出すような声でそう言った。
好青年めいた顔つきに青あざが付き、色男が台無しだ。それに、殴られたのはヴィクトルだけではないようで、ディータやオットーにも傷がある。
「いや。助けるのが遅れてすまなかった」
「いえ」
アロイスの謝罪に、ヴィクトルは力なく首を振った。
視線は折れたバイオリンに向かっていた。ネックが折られ、もう直すこともできない。弦も切れ、木片が雪の中に散らばっている。壊れたバイオリンの上に、雪が冷たく積もっていく。
「こうなる運命だったんです。結局みんなに迷惑もかけて、家族だってこの話を聞いたら……これなら、はじめから音楽なんてしなければよかった……」
ヴィクトルの言葉を否定する者は、誰もいなかった。
傷ついた五人の若者たちは、それぞれがうつむき、暗い目を足元に向けているだけだった。




