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カミラはクラウスに連れられて、レルリヒ家の裏庭にある、小さな離れへやってきた。
外観は白塗りの、特徴のない小屋。物置にしては少し立派で、人が住むにはいささか粗末。窓は多いが位置が高く、外から中の様子は見えない。煙突がないことから、中に暖炉がないだろうということだけはわかった。
だが、寒さを覚悟して入った小屋の中は、思いがけず暖かい。
小屋を昼間のように照らすのは、天井に下がった無数の魔石灯だ。部屋の四隅には、暖を取るための魔道具がある。貴重な魔石を消費して、部屋を暖め続けていた。
惜しげもなく使われる魔石のおかげで、小屋の中はまるで春の陽気だった。暖炉でも生み出せない穏やかな空気に、カミラは面食らう。
しかし、それ以上に驚いたのは、小屋の中に広がる光景だった。
視界を埋める、雪に似た白。みずみずしい、甘い香りが満ちる。入り口近くの壁際に、古びた棚があるほかには、小屋の中にはなにもない。
ただ、一面の白い花畑だけがある。
「ここは……?」
温室。その言葉は知っている。年中、同じ陽気を保つため、魔道具で温められ続ける部屋だ。当然のように魔石の消耗が激しく、草花が必要な研究室や、一部の貴族の道楽でしか存在しない建物だ。
「あんたってうかつだよなあ。俺だって男なのに、あっさりこんな人気のないところまでついて来て。俺が悪い男だったら大変だよ」
瞬くカミラの背中に、クラウスの軽口が届く。脅すような言葉だが、カミラは振り向きもしなかった。
「相手は選んでいるわよ。あなたなんて、口だけだもの」
「手厳しいなあ」
クラウスは軽快に笑うと、カミラを追い越して小屋の奥へ歩いて行く。そのまま小屋の中央辺りまで足を進めると、おもむろに立ち止った。
「ここね、俺の秘密の場所」
「……はあ」
カミラに背中を見せたまま、クラウスはいつもより、少し高い声で言った。
「小さなころに、親父がなんでもくれるって言ったから、年中咲き続ける花畑をもらったんだ。すごいでしょう」
「そうね」
たしかに、咲き誇る花は見事なものだ。足元を見ていると、ここが建物の中だと忘れてしまいそうになる。
花を彩る白い花弁は、よく見れば付け根がかすかに赤く色づいている。丸い先端に向かうにつれ、赤は色を変え、薄桃色から、真っ白に変わる。
――どこかで見た花だわ。
腰をかがめ、近くの花に顔を近づけながら、カミラは眉を寄せた。王都では、あまり見たことのない花だけど――。
「ここにある花、俺の好きな花なんだ。香りがいいでしょう? ブルーメで作る香水の、原料の一つでさ。『憧れ』の意味を持つ、ゼーンズフトの花」
「そう――――ビスケットをくれたわね」
クラウスとはじめて会った時、ビスケットに描かれていた花だと、カミラはようやく思い出す。
「受け取ってくれなかったでしょう」
「叩き割ったわ」
カミラが言うと、クラウスが笑う。
今日の彼は、妙に良く笑う。その割に、楽しそうでもないのが、カミラには気に食わなかった。
「この花はね、冬の間に芽を出して、雪解けに一斉に咲くんだ。春の町は、本当にすごいよ。町中花だらけ。ゼーンズフトだけじゃなくて、春先に咲く花でいっぱい、色とりどりになる」
町の通り沿い、あちこちに植えられた街路樹。今は雪に埋もれた広場の花壇。町の空き地に作られた花畑。家々に置かれた鉢植え。
春が来れば、それらが一斉に咲き誇る。雪解けを待つ町の人々は、春を乞うように、春の花々を植えているからだ。
春を迎える花々が、今は雪に沈む白い町を覆う。その姿は、どれほど美しいことだろうか。
「春の町は好きだ。窓からでも、花が咲いているのが見えるから。家の白い壁を、花の色が飾るんだ。雪が解けて、町の人たちが外に出て、町の空気が明るくなる。そういうのを見ているのが好きだった」
背中を向けたクラウスが、どこを見てどんな顔をしているのか、カミラにはわからなかった。カミラに向けて話しかけているのかどうかもわからない。
たぶん、クラウスはカミラの返事を期待してはいないだろう、とはわかる。彼は、誰かの答えを聞きたいわけじゃない。壁に向かって話すのが空しいから、カミラを誘っただけなのだ。
「この町が採掘町になったら、花も咲かなくなるんだろうなあ。伯父さんもフランツも、穴掘りのことばっかり。花なんて軟弱で、レルリヒ家にはふさわしくないんだって。伯父さんは、昔からアインストに憧れてたからなあ」
生真面目で寡黙な町、アインスト。几帳面な町に似た、几帳面な人々の暮らす町は、町全体が兵隊のように統率されていた。指導者に対して忠実であり、右を向けといえば右を向き、左を向けといえば左を向く。
一人一人を見れば、それぞれにそれぞれの意思があり、感情があるということをカミラは知っている。だが、傍から見た印象はやはり、「一枚岩の統率の取れた町」だ。
「でもさあ、この町のやつらって、だいたい不真面目なんだよ。会ったやつら見たわわかるだろ? 隠れて遊んでばっかり。禁止されていると、逆にやってみたくなる連中ばっかり。ばれたら面倒だから隠れてるだけで、禁忌を破っても悪いとも思ってない」
「……そうね」
カミラは、聞いていないだろうと思いつつも相槌を打つ。
町を歩く老若男女、誰もがクラウスの禁忌の「先生」だった。たまたま「先生」だけが町の外を歩いている、なんて偶然ではないだろう。おそらくは、町の大半の人間がクラウスにとって、なにかしらの「先生」なのだ。
それに、最後に会った若者たち。彼らは自警団に見つかることを恐れてはいたが、自分たちが禁則を破っていることに対する後ろめたさのようなものは、一切語らなかったことを思い出す。
「アインストみたいだったら、たしかに上の立場だとやりやすいと思うよ。でも、向き不向きってあるんだ。適当に遊ばせておいた方が上手くいくこともある。この町の香水だって、もともとは誰かの趣味からはじまったんだ」
クラウスは言葉を切ると、天井を見上げた。白く瞬く魔石灯が、彼の茶色い巻き毛を照らしている。
「……この町に、変わってほしくないなあ」
「だったら、あなたが跡を継げばいいじゃない」
カミラは片手を腰に当て、クラウスの背中を見やった。肯定も否定もしない無言の壁役は、カミラには不適だ。解決のしない愚痴なんて、聞いていて気が滅入る。
「長男なんでしょう? ゲルダが後押ししているんでしょう? レルリヒ男爵が決めかねているのなら、あなたにだって可能性はあるはずだわ」
「親父はフランツに継がせたがっているよ。もともと、子供のころからフランツを跡継ぎとして育てたんだから」
「なんで弟を跡継ぎとして育てるのよ」
ゾンネリヒトは、基本的に長男が家を継ぐ。厳密な決まりであるわけではないが、先に生まれた方に、跡継ぎの教育をするのは当然だ。その後に生まれた弟は、いわば予備。長男がどうしようもなく不出来であるか、弟がもったいないほどに出来が良いか、あるいはなんらかの事情で、長男が跡を継げない場合に、弟にお鉢が回ってくるものだ。
カミラの当然の疑問に、クラウスは肩をすくめた。
それから、ようやくカミラに振り返る。白くて細い顔には、苦笑が浮かんでいた。
「俺って、昔は病弱でさ。体力もないし、すぐに倒れるから、家の外にも出られなかった。だから親父も、こんな小屋をくれたんだ。花畑に行く体力もなかったからね」
幼いころのクラウスは体が弱く、十までも生きられないといわれていた。
だからこそ、家族はクラウスを目いっぱい甘やかし、代わりに弟のフランツを、跡継ぎとして厳しく育てたのだ。
フランツは他人よりも優秀であることを望まれ、立ち居振る舞いを厳しくしつけられた。跡継ぎと期待してこその厳しさだった。なにもできない兄が甘やかされている姿を横目に、毎日が勉強の日々だったフランツの気持ちは、どのようなものであっただろう。
自分は跡継ぎだから。兄はいずれ死ぬのだからと、言い聞かせながら暮らしていたことを、クラウスは知っている。
だが、死ぬはずだったクラウスは死ななかった。
生きられないと言われた十歳を超えたころから、クラウスは少しずつ体力を取り戻し、病気に強くなっていった。
人並みの体力をつけたあたりで、どこからかクラウスを跡継ぎに推す声が出てくるようになった。
「俺って優秀だからさ、だいたいのことは、人よりできるんだよね。フランツが一生懸命勉強したことも、半分もかからずに身につけられる。小さなころは、聡明だってよく言われていたよ。人の考えることとか、なにか隠しているなって態度とか、そういうのがすぐに見えた。――だから、俺を推したい気持ちもよくわかる。俺なら、間違いないからね」
ため息のように語るクラウスを、カミラは黙って聞いていた。
要領の悪い――なにかとから回りがちなカミラは、クラウスよりもフランツの気持ちに寄り添いがちだ。
幼いころから甘やかされて、なにもかも持っていて、いつしか自分の存在意義さえも奪われる。カミラにとってのリーゼロッテやテレーゼが、フランツから見たクラウスと重なる。
カミラにクラウスの気持ちはわからない。クラウスにはクラウスの悩みがあり、思いつめているのだろうことは理解できる。だが、彼に共感し、慰める言葉は持っていない。
「俺が跡を継いだら、フランツにはなにが残る? 跡継ぎとしてだけ育てられたのに、それを取り上げられたらどうなる」
失望するだろう。クラウスを恨むだろう。悔しい。息苦しい。カミラが先ほどまで感じていたことと同じことを、感じることだろう。
「あいつは要領が悪いし、性格も捻じれているし、人に対して偉そうだし、当主以外のなんにもできない。俺の下で働くことも、外に出て独立することもできない人間だ。でも、俺は天才だから、どこに行ってもなんでも上手くやれる。俺が当主になる必要なんてないんだ」
そう言い切ると、クラウスはぱん、と手を叩いた。それから、カミラに振り返って「あはは」と笑う。
「これで話はおしまい! あとはあいつが、フランツを跡継ぎに決めるだけ。付き合ってくれてありがとう」
クラウスは笑いながらそう言うと、入り口に立ったままのカミラへ近寄ってくる。気持ちを切り替えたようにも見えるが、相変わらず覇気のない顔つきのままだ。
「帰ろっか」
なんでもないように促すクラウスを、カミラは黙って睨みつけた。
カミラはフランツと同じ立場だ。クラウスの気持ちはわからないし、いっそ妬ましいだけだ。
――いいえ、でも、だからこそ腹が立つわ。
カミラは口を曲げると、鼻で息を吐く。腰に手を当て、胸を張り、帰りたがるクラウスに向けて口を開いた。
「まだ話は終わりじゃないわ。私が言いたいことがあるもの」
自分が渇望しているものを手に入れておきながら、甘く見られて、同情されて、譲られて。
馬鹿にするんじゃないわ。