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結局、カミラはアロイスに連れられて、レルリヒ家の屋敷へと帰ってきた。
歓待と称して、レルリヒ家の面々と囲む晩餐会は気まずかった。ゲルダがいるのも落ち着かないし、レルリヒ家同士での嫌味の応酬は、部外者には居心地が悪かった。
だけど、なによりも気まずい相手はアロイスだ。晩餐会では、互いに妙によそよそしく、必要以上の会話をしなかった。その会話だって、上手くできていたかわからない。カミラはきちんと受け答えができていただろうか。アロイスへ向けて、表情を作ることができていただろうか。外見だけでも、取り繕えていただろうか。
――――どうしてこうなるのかしら。
晩餐会も終わり、それぞれが自室に帰っていったあと。カミラは一人、夜風にあたっていた。
レルリヒ家二階にあるバルコニー。白い欄干は雪に埋もれ、空気は凍り付くように冷たい。肩掛けを羽織ってきたものの、そんなものでは防ぎきれないくらいに寒い。
冬の夜に、外に出るものではなかった。感傷に浸るなら、暖炉の前でもできたはずだ。などと内心後悔しつつも、その冷たさがカミラの頭を覚ましてくれる。昼間よりは、いくらか冷静さを取り戻していた。
――たしかに、やり過ぎたとは思うわ。
相手は無知なだけの平民。カミラという存在を、噂の中だけでしか知らなかったのだ。
顔も知らず、性格も知らない。彼らにとってのカミラは、脚色された噂の中の悪役でしかなかった。
目の前にいるのが、カミラであることも知らなかった。ヒキガエルから変わり過ぎてしまったせいか、領主であるアロイスさえもわかっていなかった。本人の前で侮辱していることなど、夢にも思っていなかった。
それに、カミラがリーゼロッテと対立していたのは事実。リーゼロッテとユリアン王子の恋においては、悪役の立ち位置であったのも事実。敗北が見えていながら、王子に追いすがったカミラの姿は、確かに見苦しかっただろう。リーゼロッテを憎む姿は、醜いと言われても仕方がないのかもしれない。
――いいえ、でも。
「だからって、私が悪いわけじゃないわ」
若者たちは悪くない。カミラだって同じ立場なら、笑い話の種としていたかもしれない。
カミラも悪くない。腹を立てるのは当然だ。
それでカミラの言った言葉に、今度はアロイスが傷ついた。だけどそれも、アロイスが悪いわけではない。
それなら、なにが悪かったのだろう?
「もう――――どうしろっていうのよ!」
バルコニーの欄干まで歩み寄り、カミラは手すりに手をかけた。冷たい雪に指が沈み、凍り付くような心地がする。目の前に広がるのは、暗い中庭と、その先にある町あかり。地平線と入り混じる、藍色の空の端。ここからずっと南に王都があるが、見えるはずもない。
王都では。王宮では、ユリアン王子とリーゼロッテが幸せな結婚式を待っているはずだ。
カミラが望んで望んで仕方がなかったユリアン王子の隣に、リーゼロッテがいるはずだ。
二人のことを、誰もが祝福しているだろう。ユリアン王子もリーゼロッテも幸福で、遠く寒空の下にいるカミラなど、思い出すこともない。
「悔しい……!」
どうしてカミラは上手くいかないのだろう。カミラのなにがいけなかったのだろう。恋がかなわないと知ったら、早々に見切りをつけるべきだったのだろうか。十年の恋を、賢く切り捨てるべきだったのだろうか。
「悔しい!」
息苦しさに、カミラは唇を噛む。冷静だなんて嘘だ。手すりを軋むほどに強く握りしめ、荒い呼気を絞り出す。
「絶対に見返してやるんだから!!」
負けるものか。悔しい。悔しい。腹が立つ。悔しい。息苦しい。悔しい。
誰も彼も、見返してやらなきゃ気が済まない。カミラを捨てたことを、後悔させてやりたい。
だから泣いてたまるものか。
弱い自分など、誰に見せてやるものか。
「…………あれ? 先客?」
外を睨むカミラの背中に、軽い口調の声がかかる。振り向かなくてもクラウスだとわかる。
カミラは深呼吸をすると、一度強く目を閉じた。冷たい夜の闇に感情を捨てると、クラウスに振り返る。
「なんでこんなところに? こんな寒い夜に外にいたら、風邪ひくよ」
「あなたこそ、なにしに来たの」
「俺はたそがれに来たの」
妙に気取った様子で、クラウスは口を曲げた。それから、断りもなくカミラの隣までやってきて、欄干に背中を預ける。
「君は? …………大丈夫?」
「なにがよ」
横目で伺うクラウスの視線に、カミラは「ふん」と鼻で息を吐いて見せた。クラウスに心配される筋合いはない。
強気なカミラの態度に、クラウスは小さく首を振った。話題を変えるように、明るい調子で口を開く。
「――結局、騒音の真相はたいしたことじゃなかったね。化け物とか、怪しい組織とか期待したんだけどさ」
「そんなものよ。王宮でも幽霊騒ぎがあったけど、きっと似たようなものなのね」
一時は社交界をにぎわせた、夜な夜な王宮を歩く青白い幽霊の噂を、カミラは記憶から掘り返す。目撃者が何人もいて、王家を恨む貴族の霊だとか、大昔に処刑された王族だとか、勝手な噂がいくつも飛んでいたものだ。
好奇心旺盛な貴族の不肖息子たちが、幽霊の正体を暴いてみようとあれこれ馬鹿なことをやっていたが、結局真相はわからずじまい。済ました令嬢たちは、面白おかしい失敗談だけを聞いたものだ。
――懐かしい。もう遠い昔のことみたいだわ。
あの頃はまだ、カミラと表面上だけでも親しむ者たちがいた。リーゼロッテと対立してから今までで、ずいぶんと変わってしまったものだ。
笑うように頬を緩ませ、目を伏せるカミラを、クラウスは覗き込む。
「…………君ってさ、音楽出来るの?」
「はあ?」
突然の質問に、カミラは思わず低い声を返した。藪から棒に、どうしたというのだ。
いぶかしむカミラの視線を受け、クラウスは肩をすくませた。軽薄な笑いを浮かべつつ、白い息を吐き出す。
「地下で、楽器についてあれこれ言ってたからさ。ここって土地柄、音楽の話ができるあんまり人間っていないんだよね。もし楽器ができるならさ――――」
「できないわよ」
「は」
「やったこともないわ」
クラウスの言葉を切り捨て、カミラは当然のごとく言った。クラウスが、失望やら苦々しさを混ぜたような、なんとも言えない渋い顔をする。
でも、できないものはできないのだ。
「こっちじゃどうかは知らないけど、王都では音楽は音楽家が奏でるものよ。貴族はそれを聞くのが仕事。鼻歌くらいなら歌うけど、楽器なんて触ったこともないもの」
「はあああ!?」
大声を上げるのは、クラウスにしては珍しい。信じられないものを見るような目で、彼はカミラを瞳に映した。目を見開いたその顔さえも整っているのだから、クラウスは相当の美男子である。
「楽器も触ったことないのに、あんなに自信満々で駄目出ししてたの!? よく言えたな!?」
「自分ができないと、口出しできないなんて理屈はないわ」
カミラは胸を張る。ふん、と鼻で吐き出した息も白い。腰に手を当てる姿には、いつもの気の強さが戻っていた。
「それに、私には耳があるもの。楽器ができなくても、音は聞けるわ」
「――――たしかにな」
カミラの言葉に、クラウスは噴き出した。夜空に向かって、声を上げて笑う。軟派で軽薄ないつもの様子とは少し違って、素のままで笑っているように思えた。
「あんたのそういうところ、いいね。すごい好き」
「馬鹿にしてるの?」
「いいや、褒めてんの!」
涙のにじむ目じりを押え、クラウスはそう言った。カミラは腑に落ちない。不満交じりの目を向ければ、微笑み返されてしまう。
「あんたさ、もう一回あいつらに会ってくれないかな? 自慢の耳で、あいつらの音を聞いてやってほしいんだ。音楽の指導をつけてやってほしい」
「なんで私が」
「まあまあ、寛容も貴族の義務だと思って。余裕綽々の高貴な態度を見せてやってよ。フェアラートとディータも、謝りたがってたよ」
む、とカミラは口をつぐんだ。
つまり、音楽の指導とはただの名目であって、本当に必要なのはカミラがまた地下に行くことなのだ。貴族の怒りを買ったと震える庶民のために、もう怒ってないと、態度で示せということだ。
今ごろ、フェアラートたちは生きた心地がしていないだろう。些細なことで権力を振るい、民を傷つける横暴な貴族も、中には存在する。特に今は、レルリヒ家の自警団の話まであるのだ。必要以上に恐れていることだろう。
カミラはまだ、彼らに対して腹を立てている。だからと言ってカミラには、身分を利用して彼らをどうこうしてやろうというつもりはない。だいたい、カミラがどうこうするためには、アロイスの力を頼る必要がある。アロイスが無闇に平民をいたぶることなんて許すはずもないし、実際のところカミラができるのは、文句の一つ二つを言うくらいなものだった。
冷静でなかったことは、自分でもわかっている。頭に血が上って怒鳴りつけて、それでは噂の中の「カミラ」像を強調するだけだ。
誰になんと思われたって、カミラは構わない。カミラが信じるもののためには、嫌われることも、恐れられることも怖くない。少なくとも、モーントン領に来たばかりのころはそう思っていた。
だけど今は、奇妙な自制心がある。
カミラが恐ろしい人物と思われては――――きっと、アロイスに迷惑がかかってしまう。
「…………わかったわよ」
カミラは長い息を吐くと、渋い顔でそう言った。
「ただし、あんな騒音なんて聞く気はないわ。私の耳に堪える音に変えてやるんだから!」
「ありがと。君って本当に素敵!」
「そういう態度……」
現金なクラウスの言葉に、カミラは眉を寄せた。文句でも言おうと不快感を込めてクラウスを睨みつける。
クラウスは、空を見上げていた。雪の欄干に体を沈め、細い頬を寒さに赤く染める。澄んだ冬の星が、青く赤く、瞬いていた。
「…………どうしたのよ」
「ん?」
「元気ないみたいじゃない」
腰に手を当て、カミラは見下すようにクラウスを見上げる。その不遜な顔つきに向けて、クラウスは気取った流し目を寄越す。
「心配してくれるんだ? 自分も落ち込んでたのに。その優しさにときめいちゃうなあ」
「落ち込んでなんかいないわよ。軽口はいいから、そのしょぼくれた顔をやめなさい。不愉快だわ」
「しょぼくれたって」
は、とクラウスは楽しそうに息を吐く。それから顔をしかめるように、くくく、と押し殺した声で笑った。
「自分の方がしょぼくれた顔してるくせに」
「誰がしょぼくれてるのよ! 人に向かって、失礼だわ!」
「あんたが俺に言った言葉だよ」
荒く息を吐き出すカミラを見て、クラウスは肩を震わせた。声を押えて笑うクラウスに、カミラは両手を握りしめる。せっかく気にかけてやったのに、馬鹿にされているとしか思えなかった。
「元気そうじゃない。私が気にするまでもなかったみたいね!」
「いやいや、あんたのおかげだよ」
先ほどよりも、少し明るい顔つきで、クラウスは髪を掻き上げた。それから、「よ」と勢いをつけて、もたれかかっていた欄干から離れる。
そのまま、屋敷へ向かって数歩。バルコニーから出て行くかと思ったところで、クラウスは立ち止った。
カミラに振り返り、クラウスは口を開く。はじめはなにも言わずに口を閉じ、一度視線を伏せてから、また開く。
「――あのさ、ちょっと時間ある? 付き合ってほしい場所があるんだ」
偽物めいた微笑を浮かべ、クラウスはそう言った。




