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カミラを乗せた馬車は、ブルーメへ向かう雪道を駆けていた。
馬車から窓の外を見れば、見渡す限りの雪景色がある。なだらかな丘陵と、枯れた広葉樹。凍った川の上までも、柔らかい雪が降り積もる。
これでも、他の土地に比べれば雪は少ない方だった。ブルーメのあるモーントン領西部は、領内では最も気候の穏やかな土地。冬の寒さは厳しくなく、夏の暑さは激しくなく、瘴気が濃くなることもない。瘴気を放つ沼地は稀で、あちらこちらに森があり、獣たちが暮らしている。モーントンでは数少ない、農業地帯でもあった。
もっとも、今は田畑も枯れている。草木の芽吹く春までは遠い。
延々と続く雪景色を見ながら、カミラは一人ため息をついた。
「ご気分が優れないみたいですけど、大丈夫ですか」
同じ馬車に乗るニコルが、心配そうにそう言った。尋ねておきながら、彼女はカミラの返事を待たず、荷物の中からひざ掛けを引っ張り出そうとしている。
「ああ、いえ、大丈夫。長旅だから疲れただけよ」
領都からブルーメまでは、馬車でほぼ半日かかる。おまけにこの雪道だ。平時以上に時間をかけた旅は、旅慣れしない人間には辛いものがある。
領都を出たのが昨日。途中の町で一泊し、二日間かけた馬車の旅。腰の据わらない道のりに、疲れが出るのも無理はない。
しかし、ニコルはどうにも疑わしげだ。
「本当にそれだけですか? 昨日の夜、宿に泊まった時も部屋にこもりがち、元気がありませんでしたし……」
「……そうだったかしら」
窓の外に目を泳がせながら、カミラはうそぶくように言った。じとりと見つめるニコルの視線が、どうにも痛い。
「そうですよ。いつもの奥様だったら、すぐにあちこち見て回るって言いだしそうなものですのに――」
「奥様って言わないで!」
思いがけず口から出た言葉に、ニコルもカミラ自身も驚いた。慌てて口を押えるカミラを、ニコルは目を丸くして見ている。
今までも、ニコルはさんざんカミラのことを「奥様」と呼んできた。はじめのうちは否定していたカミラも、そのうち面倒になって、否定する回数も減った。
最近では、もうすっかり慣れてしまい、ニコルの呼ぶに任せていたのだ。
久しぶりの否定の言葉は、思いがけず強い響きだった。ニコルは二度三度と瞬き、それから、先ほどよりもさらに気づかわしげな表情を浮かべた。
「本当に、ちょっとご様子がおかしいですよ。……ブルーメに行くっていうお話をいただいたときくらいから。私に、『どうしてもついてきてほしい、ずっと一緒にいてほしい』なんておっしゃって。馬車だって、本当はアロイス様と乗るはずだったのに」
そう。本当はカミラは、アロイスと共に貴人用の馬車に乗るはずだった。それをどうしても拒んだ結果、カミラはニコルと馬車に乗り、アロイスは彼の従者とともに、男だらけの馬車に詰め込まれる羽目になった。悪いとは思っている。
ちなみに、アロイスの従者の中には、料理長のギュンターもいる。一応、クラウスの上司ということで付いてきているそうだ。クラウスの口車に乗せられ、「ユリアン殿下が好き」と言い放ってしまって以来、カミラは彼とも顔を合わせづらい。
「それは、あなたは私のたった一人の侍女なのだし」
カミラはばつの悪さを隠すように、眉根を寄せてニコルに顔を向けた。
「それに、なんというかこう、居心地が悪いというか……心細くて。誰かに傍にいてほしいのよ」
口を濁しながら、カミラは小声でつぶやく。ふやふやの語尾は、馬車の揺れで上手く聞き取れない。ニコルはますます顔をしかめ、心配さをあらわにした。
「やっぱり、いつもの奥様らしくないです」
む、とカミラは口をつぐんだ。カミラ付きの唯一の侍女として、数か月を過ごしてきたことはある。ニコルは良くカミラを見ていた。
ニコルの、ともすれば無礼な言い草に、言い返さないことも、腹を立てないことも、普段のカミラならばあり得ない。それでもなにも言えないのは、彼女の言葉が的を射ていたからだ。
――だって、どんな顔をすればいいのよ。
婚約をしてほしい――アロイスにそう言われたとき、カミラは返事ができなかった。否定も肯定もなく立ち尽くすカミラに対し、アロイスは「返事は今でなくとも良い」と言ってくれた。
だけど、今でないならいつ返事をすればよい? 返事をしないまま、アロイスと平気で顔を合わせられるのか?
なにより――カミラ自身は、どう答えるつもりでいるのか?
それが、一番わからない。
このまま、いつまでも返事をしないわけにはいかない。いつかは決断しなければいけない。答えを出さないまま、アロイスを待たせていることだって後ろ暗い。
いつだったか、カミラがアロイスに向けて行った「不誠実だ」という言葉。それが、そのままカミラ自身に向けて返ってくる。
今のカミラは、アロイスに対してひどく不誠実だった。
ぐるぐる悩み、逃げる自分が自分らしくないことは、カミラ自身でわかっている。
だけど体は自然とアロイスを避けるし、心はいつの間にか、ぐるぐると考えてしまっていた。
アロイスへの罪悪感。ユリアン王子への恋心。カミラ自身の激情と、良心の呵責。恨み。妬み。その先にひそむ心の奥底。収集のつかない無数の感情が、カミラの思考を惑わせる。
ぐるぐるぐるぐる。
めまいがしそうだ。
馬車の車輪が、石畳に乗り上げた。
その振動に顔を上げ、カミラは窓の外を見る。
白塗りの壁に三角の灰色の屋根。白と灰の二色の街並みが見える。
一見簡素な造りの家々は、だけどよく見れば、実に瀟洒なたたずまいをしている。白と灰には、窓のガラスがアクセント。わざと塗り残した白漆喰から石のレンガが顔をのぞかせ、遊び心を見せている。単調なのに、ひどくセンスが良い。
屋根に積もった雪さえも計算されているのだろうか。屋根から下がるつららが光り、幻想的な空気を醸し出していた。
アインストの生真面目な画一さとも、グレンツェの雑多なにぎやかさとも一線を画す。こざっぱりとして軽妙な、洒落た町。
ここが、レルリヒ家の配下にある、花と香水の町――ブルーメだ。