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レルリヒの跡継ぎ問題がこじれているらしい。
冬の気配が色濃く、肌が痛むほどに寒い日。薄く雪の積もる中庭を散歩しているときに、カミラはアロイスからそんな話を聞いた。
「アロイス様、背筋を伸ばす!」
並んで歩くアロイスの背中を、カミラは手のひらで叩いた。枯れた庭に、ぱしんと乾いた音が響く。アロイスは、音に脅されたように、慌てて曲がっていた背筋を伸ばした。
「は、はい。――――それでですね、どうにも当主のルドルフでは収めきれないと、泣きが入りまして」
「顎を上げる! 視線は前! 堂々として見せるんです!」
「はい! ……私は、散歩とはもう少し穏やかなものだと思っていました」
戸惑ったようにアロイスがつぶやくのも、もっともであった。
思い立ったら即実践のカミラが、アロイスを冬の散歩に誘ったのは数日前のこと。アロイスは快諾し、以来、茶会の代わりに中庭を散策する日々が続いていた。
とはいえ二人の「散歩」は、言葉から受け取る印象とはかけ離れていた。アロイスは歩く姿の一挙手一投足を監視され、乱れがあれば逐一注意をされる。散歩とは名ばかりの、カミラによる「見せ方」の指導だった。
――背筋が伸びれば腰回りも引き締まるし、傍から見ても印象がよくなるわ。
カミラの目的は、アロイスを痩せさせることだけではない。カミラ自身もほとんど忘れかけているが、いずれは王都に連れ帰り、美男子になった姿を見せつけるつもりでいた。
立派な貴公子が、背筋を曲げていては様にならない。気品ある仕草や、優雅な物腰を身に着けてもらう必要があるのだ。
「アロイス様、肩が振れています! 揺らさない!」
「はい――こんな感じでしょうか」
カミラの厳しい指導を、アロイスはさほど苦には思っていないようだった。カミラの忠告を素直に受け、すぐに歩く姿を正す。
さすが公爵と言うべきだろうか。彼は呑み込みがとても早い。あるいは太り過ぎていたがために、体重を支えることができず姿勢が悪くなっていただけなのだろうか。貴族としての身のこなしは、もとから身についていたのかもしれない。
この調子なら、すぐに見栄えの良い立ち振る舞いができるようになるだろう。誰の目に触れても、恥ずかしくないくらいに――――。
王宮に立つアロイスを想像しかけて、カミラは無意識に視線を伏せた。悔しがるリーゼロッテやテレーゼの妄想が、頭の片隅に追いやられる。代わりに浮かんでくるのは、これまで抱いたことのない感情だった。
カミラの中でもやもやと渦を巻くのは、薄暗い思いだ。アロイスが変わろうとするたびに、カミラのためになにかするたびに浮かんでくる。苛むようなこの気持ちは――なんだろう?
「カミラさん、どうしました?」
「あ……い、いえ」
カミラの絶え間ない監視の目が急に失せ、アロイスは不思議そうだった。自分に向けられた気づかわしげなの視線に、カミラは慌てて首を振る。
それから、内心を誤魔化すようにアロイスの様子を眺め、声を上げた。
「あ……アロイス様、歩幅が小さい! 軟弱に見えますよ!」
「ああ、これは」
アロイスは珍しく、カミラの指摘にうなずかなかった。少し困ったように自分の足元に目を落とし、苦笑する。
「今は、カミラさんと歩いていますから」
「……はい?」
いぶかしむカミラに、アロイスは頬をかく。
「並んで歩くには、これくらいがちょうどいいんです」
アロイスにつられるように、カミラも足元を見た。
ドレスに隠れているのは、カミラの細い足と、かかとの高い歩きにくい靴。横に並ぶアロイスの、大きな足。彼の足が刻むのは、体躯に不釣り合いな、小さな歩幅だった。
カミラは瞬いた。落ち着いて考えてみれば、すぐにわかること。歩く速さが、同じはずなんてないのだ。
――――私の歩幅に合わせていたんだわ。
「……ぐう」
飲み込み切れない感情が、カミラをうならせた。「どうしました?」と首をかしげるアロイスが憎らしい。
――ううう……元はヒキガエルのくせに……!
奥歯を噛みしめ、カミラはアロイスを睨み上げた。
悔しい。少し嬉しいと思ってしまうことが、余計に悔しい。そして、それ以上に――辛かった。
――なんでよ。
アロイスはカミラに歩幅を合わせたまま、ゆっくりと並んで歩く。ぽつぽつと、レルリヒの問題や、その膝元、ブルーメの町の話をする。だけど、カミラの耳には、ほとんど入っては来ない。
――望んでこんなところに来たわけじゃないのに。
王都に戻りたいと思っていた。自分を笑った人間たちを、見返したいと思っていた。そのために、アロイスを痩せていい男にするつもりだった。
――私はユリアン殿下が好きなのに。
そもそも最初から、アロイスと結婚なんてしたくなかった。アロイスを痩せさせるのだって、彼のためではなかった。アロイスだってカミラを厄介者扱いしていたし、その時はなにも感じてはいなかったのに。
今は、後ろ暗い。
カミラのために、変わろうとするアロイスを見るたびに抱く。この感情の名前は、たぶん――――罪悪感だ。
「カミラさん、よろしいですか?」
「え! はい! ……はい?」
アロイスの問いかけに、カミラは反射的に答えた。だが、なにに返事をしたのかわからない。不審なカミラの顔に、アロイスは呆れ半分に息を吐いた。
「ブルーメ訪問の話です。レルリヒ家の跡継ぎ問題で、一度、ブルーメのルドルフを訪ねようと思っています。それに、カミラさんにも同行していただけないかと」
「えっ私ですか? いいんですか?」
アインストに行くときは渋っていたのに、どういう風の吹き回しだろうか。瞬くカミラに対し、アロイスは少しだけ言葉をためらった。
「……カミラさんに、モーントンの主要な町を見ていただきたいと思いまして。もうここへきて半年以上たちますが、まだグレンツェとアインストしか訪ねていませんから」
「はあ」
たしかに、半年以上もいる割に、カミラは引きこもりが過ぎたかもしれない。仮にも領主の結婚相手としてきた身。カミラの立場としては、早々に土地の主要な人々に挨拶をして、顔を見せて回るべきだったのだろう。
「表向きは新年の歓待という体裁なので、ブルーメで春を迎えることになります。少し長い滞在ですが、そのぶん、ブルーメの人々とも親しめるでしょう。この機会に、レルリヒ家の者たちも紹介しますよ」
遅まきながら、アロイスはそれをしようというのだ。
――今さら? どうして…………。
いや――理由など、考えるまでない。意味するところは、たった一つだ。
「来年――春の終わりに、私は二十四になります。そのころまでには、カミラさんの理想の姿になれるように、努力します」
いつの間にか、アロイスの足は止まっていた。カミラの行く手を阻むように、真正面に立っている。
背筋は伸びている。堂々とした立ち姿で、視線はしっかり前を向いている。
風になびく銀の髪は、ユリアン王子に少し似ている。
真摯な赤い瞳は、同じ色なのに、少しも似ていない。
「年が明けたら――春になったら、今度は正式に、私と婚約をしていただけませんか」
カミラは呼吸を止め、無言で瞬いた。
頭の中をひっくり返しても、答えが出てこない。
4(1)終わり




