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厨房の外で、カミラはクラウスを睨みつけた。
「あなたのせいで追い出されたじゃないの!」
「いやあ……あれは俺、悪くないと思うんだけど」
カミラと共に追い出されたクラウスが、伸びをしながら言った。料理長たるギュンターに追い出されたというのに、たいして気にした風もない。
「あの料理長、真面目すぎるというか、潔癖なところがあるんだよなあ。そんなんだから、今も独り身なんだよ」
「あなたは不真面目過ぎだわ」
カミラは頭に手を当てて、苦々しさを吐き出した。
カミラのうかつな発言は、ギュンターをたいそう傷つけた。
ユリアン王子が好き、と言った時のギュンターの表情は、筆舌に尽くしがたい。厳めしい角ばった顔をゆがめ、呆けたように目を見開き、ぽかんと口を開けていた。威勢のいい赤い髪も、どことなく暗く見えた。
彼は、繊細な料理の腕に見合った、繊細な心の持ち主であったのだ。自分自身のことでもないのに、見ている方が痛ましい様子で、「出て行ってくれ」と力なく言われては、図々しく居残ることは難しい。
おまけにカミラは、「しばらく厨房には来ないでくれ」とまで言われてしまったのだ。苦い気持ちにもなる。
カミラを追い出した厨房の扉は、今は閉め切られている。
中ではギュンターが一人きり。泣いているのか嘆いているのか、不気味に静まり返っている。その扉を一瞥し、カミラはため息をついた。
それを、クラウスは意外そうに見やる。
「あんたって、意外とこういうの気にするんだね」
「どういう意味よ」
カミラが不機嫌に言えば、クラウスが目を細める。カミラの嫌いな、彼特有のへらへらした笑みだ。
「いや――かわいいなあと思って」
カミラは顔をしかめ、クラウスから顔を逸らした。あからさまな態度だが、クラウスは堪えない。声の調子を変えず、カミラに呼びかける。
「ユリアン殿下が好きって本当? 君を捨てて、エンデ家の娘を選んだやつだよね? そんな目に遭っても、まだ好きなの?」
「私の勝手だわ」
「そう。へえ。ふーん」
クラウスは相槌を打ちながら、逸らしたカミラの顔を覗き込んだ。
ユリアン王子に少し似た、線の細い端正な顔が、意地悪そうに歪む。軽薄な瞳の中には、どこか肉食獣めいた、狙いすました光が見えた。
「そんなひどい男、忘れちゃいなよ」
柔らかい声でクラウスは言った。言いながら、自分の胸に手を当てる。腰を少しかがめ、カミラの目を見ながらうそぶくその態度は、気障でありながら、よく似合っていた。
「一途な君に、そんな男は似合わない。俺の方がずっといい男だよ。優しいし、好きになった女の子は傷つけない。殿下に比べれば身分は低いけど、俺は天才だからね。生活に困るようなことはさせないよ」
女心をくすぐるような、柔らかい声。堂々と語る、恥ずかしいくらいの言葉たち。冗談と本気の境にある、人を惑わすような表情。みょうに気取っているくせに、滑稽にならない仕草まで、クラウスはユリアン王子を彷彿とさせた。
人に見られることを知っている男だ。それに、相手がどう思うかも、よくわかっている。そういう計算高さまで含めて魅惑的で、娘たちは心を奪われてしまうのだ。
「黒髪の憧れの人。俺を選びなよ。ユリアン殿下でも、あいつでもなく――」
だが、クラウスはユリアン王子ではない。
「結構だわ」
カミラは短くそう言うと、クラウスを置いて歩き出した。厨房から離れて、自室へと戻ろうと考えていた。クラウスなど、はじめから相手にするつもりはない。
「待ってよ」
後から、慌ててクラウスが追いかけてくる。早足で歩くカミラに追いつくと、並んで歩きだす。
「つれないなあ。ねえ、俺にも可能性はあるって思わせてよ」
「あるわけないでしょう」
カミラは足を止めず、前を向いたまま言った。
「あなた、自分の立場わかっているの? 男爵家の跡取りなんでしょう。そんな軽薄な態度でいたら、痛い目に遭うわよ」
王都にいる間も、火遊びが好きな子息令嬢はいたものだ。
たしかに、上手くやる人間は上手くやる。若いころは散々遊び回ったくせに、良い伴侶を得て、過去を帳消しにしてしまえる者もいる。
だが、失敗する人間だって山のようにいた。どこの馬の骨とも知れない相手の子を産んで、家を追い出された娘もいた。火遊びが過ぎていけない相手に手を出し、身を滅ぼした男もいた。
そして、そういう破滅は、家の醜聞にもなる。社交界の噂、そして嘲笑の種として、当人だけにとどまらない負債となるのだ。
カミラだってそう。傍から見れば、そうやって不相応の恋に興じ、家名に泥を塗り、身を滅ぼした人間の一人なのだ。
「俺はいいんだよ」
カミラの身を切るような説得も、しかしクラウスには届かない。彼は柔らかそうな巻き毛をかいて、無責任に笑った。
「跡を継ぐ気なんてないんだから。家のことは、まじめな弟がなんとかしてくれる」
「……あなた、長男でしょう?」
「関係ないね。親父だって、ずっと弟を後釜に据える気でいたんだし、弟もそのつもりでいる。こういうのは、向き不向きだよ」
思わず、カミラは足を止める。ずっと前に向けていた視線を、わずかにクラウスに傾ける。
彼は何ということはないように、カミラに小首をかしげて見せた。
「どうしたの? 俺と遊んでくれる気になった?」
どうして立ち止まったのかは、カミラ自身にもわからない。
――――ただ、なんとなく。
髪色と同じ色の瞳には、享楽さが滲んでいる。何事にも本気ではない、遊び人の顔だ。
「そんな気になることは、永遠にないわ」
クラウスから目を逸らすと、カミラはつんとした声で言い捨てた。そして、今度はクラウスが付いてこないように、さらに早足で歩き出した。
カミラの後ろで、クラウスは肩をすくめただけだった。
――――なんとなく。
クラウスを置いて、一人。自室へ向かいながら、カミラは顔をしかめた。
仕草や態度は、ユリアン王子に似ていると思った。
だけどそれ以上に、彼はアロイスに似ている。
――そんなはずはないわ。アロイス様はあんなふざけた男じゃないもの。
頭を振って思考を追い払うと、カミラは完全なる八つ当たりで、強く床を蹴った。