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「おっ。今日はご機嫌みたいだね」
翌日、カミラは厨房で軽薄な声をかけられた。
食料の買い出しだのなんだので、人の出払った時間帯。誰もいないと見越した厨房に人がいることは、カミラにとって予想外だった。
「なにかいいことでもあった?」
声に顔を向ければ、気に食わない男の姿がある。昼寝でもしていたのだろうか、壁際にある食材を詰めた木箱の上に、彼は横たわっていた。
「なにも。でも、あなたの顔を見て機嫌が悪くなったわ」
カミラが眉根を寄せても、クラウスはあくびを返すだけだ。億劫そうに半身を起こし、根乱れた髪を無造作にかく。
「君って浮き沈みが激しいねえ。でも、そのうち俺の顔を見るだけで嬉しくなるよ」
ゆるく微笑みを向けると、クラウスは木箱の上に座りなおした。それから、作業台の前にいるカミラの様子をあらためて眺める。
カミラの前にあるのは、玉ねぎ、にんにく、キイチゴのジャム。ここ数日、ギュンターが厨房の若手に練習させているソースの材料だった。
カミラの手にはナイフ。かまどには火が入り、使い込まれたフライパンが用意されている。これから何をしようとしていたかは明白だった。
「秘密の特訓でもするの? 勝手に食材使ったら怒られるんじゃない?」
あはは、と軽い調子でクラウスは笑った。
馬鹿にされているような気がして、カミラはどうにも気に食わない。ふん、と鼻で息を吐くと、クラウスを睨みつける。
「今までだって勝手にやってきたわ。でも、誰にもばれたことないわよ」
「そうかな? 在庫が減ってたら気が付くでしょ。料理長は気にしないだろうけど、伯母さんは目ざといからなあ」
おばさん――と聞いてから、ゲルダと結びつけるまで、少し時間がかかった。
モンテナハト家の侍女長ゲルダ。カミラに憎しみめいた敵意を向ける彼女は、見た目からして生真面目、頑固、そのうえ陰気である。軽薄以外に形容のないクラウスとは、まるで正反対に思えた。
しかし、ゲルダはレルリヒ家当主の姉。そして、クラウスが当主の長男であるのならば、すなわち伯母と甥の関係にあるのだ。
「あの人、塩の一粒だって見逃さないって感じでしょ。食料の減りが早いのもすぐに気づくよ」
「でも、なにも言われたことはないわ」
「なら、見逃されてるだけだね」
クラウスの口ぶりに、カミラはむっとする。ゲルダの手の中で踊らされている、ということだろうか。
――見逃されるってなによ。
相手は一介の使用人。カミラは――微妙な立ち位置だが、身分的にはゲルダよりも上である。カミラの行動に文句を付けられるのは、屋敷の中ではアロイス一人くらいのはずだ。
「それはありがたいことだわ。じゃあ、堂々とやらせてもらうわよ」
八つ当たり気味にクラウスを睨みつけると、カミラは胸を反らし、背筋を伸ばした。
冬場の食材を浪費することに、内心の罪悪感がないわけではないが、上達には致し方なし。練習に失敗はつきものなのである。
――とまあ、開き直りは得意なのだ。
「…………なるほどねえ」
図々しいカミラの態度を眺めながら、クラウスはため息のように言った。頭をひとかきすると、なにを思ったか立ち上がり、カミラの近くまでやってくる。
カミラは、それを無視して、野菜を切り始めていた。傍でクラウスが見ているのは落ち着かないが、できるだけ気にしないようにする。堂々とすると言ったからには、こんなことで動揺するわけにはいかないのだ。平常心である。
「あんた、本当にアロイスと結婚するの?」
「はあ!?」
突然の言葉にカミラの肩が跳ね、甲高い声が口から出た。顔を上げ、思わずクラウスに目を向けてしまう。
「な、違、まだそうと決まったわけじゃ……!」
「そうなの? でもあいつを痩せさせたのって、あんただよね」
「そ」
――そうなるのかしら。
アロイスを痩せさせようと、躍起になっていたのはカミラだ。だが、グレンツェでの一件以降、カミラからアロイスにどうこうしたことはない。カミラがなにも言わなくとも、アロイスは徐々に食事量を減らし、自ら体重を落としていった。
カミラがアロイスに与えたのは、最初のきっかけ程度。これで、痩せさせたと言えるだろうか。
ぐるぐる悩むカミラの内心を、クラウスは知らない。止まった手元を眺めながら、彼は腕を組み、微かに首を傾ける。
「あんた、あいつのこと好きなの?」
「は、はあ!? さっきからなんなのよ!!」
無遠慮に投げられるクラウスの問いに、カミラは声を荒げた。無礼にもほどがある。
「あんた、わかりやすいなあ」
動揺するカミラを前に、クラウスこそが堂々としたものだった。腕を組み、先ほどまでとは変わらない、軽薄さの見えるヘラヘラした顔で、カミラの顔を覗き込んだ。
「どこがいいの。あんな、なに考えてるかわからない男」
だが、言葉はひやりと冷たい。カミラは冷や水でも浴びせられたように、目を見開いてクラウスを見やった。
「なに」
「あいつ、簡単に痩せたでしょ」
カミラの視線を受け、クラウスは軽薄な笑みを深める。
「おかしいと思わなかった? だってあいつ、やろうと思えばすぐに痩せられたんだよ。なのに、ずっと豚のヒキガエルでいたんだ。意味わかんないじゃん。なんのために、って考えなかった?」
カミラは目を眇める。口説くときと同じ口調で語るこの男こそ、カミラにとっては『なにを考えているかわからない男』だ。
そして、心底気に食わない。
理由は――きっと、この男がアロイスを侮辱しようとしているからだ。
「モンテナハト家の伝統なんでしょう。濃い味付けで、たくさん食べるのが」
「でも、破ってもなにも言われない伝統でしょ」
現に、アロイスは伝統を破りつつある。濃い味付けは変わらないが、食事量はぐっと減った。八食だった食事が、今は三食と茶会の菓子だけ。量も、同じ年ごろの男よりも、少し多いくらいになっている。
そう、減らそうと思えば減らせた。アロイスはこれまでの食事量を惜しむことなく、原料にありがちな、「やめようやめようと思いつつ、つい食べてしまう」みたいなこともなかった。
アロイスの食事を減らすとき、古い使用人たちは反発をしたらしいが、それでも主人の命には逆らえない。伝統を破るなんて、難しいことではなかった。
――でも。
「おかしいとは思わないわ」
カミラはクラウスを睨みつけたまま、刻みかけの玉ねぎに、勢いよくナイフを下した。ざくりとナイフの刺さった玉ねぎに、クラウスがぎょっと肩をこわばらせる。
「伝統を破ってでも――変わろうと思うことが、一番難しいんだもの!」
「う、うん」
怯んだようにクラウスは頷いた。こくこくと頭を振りながら、カミラから離れるように足を引く。どうやら、カミラのナイフが自分に向くことを恐れているらしい。
「あんた、あいつのことちゃんと好きなんだな」
「違うわ!」
反射的に、カミラは否定する。たぶん、頭に血が上り過ぎていたのだ。
言わなくていいことまで口にしてしまうくらいには。
「誤解しないで! 私が好きなのは、ずっと――ずっとずっと、ユリアン殿下なのよ!」
「えっ」
「えっ」
戸惑いの声が一つ多い。
二つ聞こえた声のうち、一つは目の前のクラウスが放ったもの。
もう一つは、それよりももっと低い、中年男のものだった。
顔を向ければ、厨房の入り口に、見覚えのある男が立っている。
驚愕に目を見開き、傷ついたように口を開く、厨房の主。ギュンターだった。