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「ああ、クラウスに会いましたか」
厨房を飛び出したその足で、告げ口に来たカミラに対し、アロイスは苦笑しながらそう言った。
場所は彼の執務室。アロイスは、どうやら書類仕事中だったらしい。書類の束が山のように、アロイスの両脇に控えている。
しかし、現在仕事の手は止まっている。怒り心頭のカミラを前に、無視をするのは得策でないとでも思ったのだろう。
忙しいアロイスの邪魔をするのは、カミラとしても心苦しい。申し訳ないと思わないでもない。思わないでもないが、二の次なのだ。
「会いましたか、じゃないわ! 私の話、聞いてました!? アロイス様の食事を、豚のエサだって言ったんですよ!?」
――――豚。
カミラ自身も、さんざん肉だのカエルだのと罵ってきた身。人のことを言える立場か、と言われれば反論の余地もないが、言われてないから問題はない。
少なくとも、カミラは豚とは言っていない。カエルよりも直接的な言葉のぶん、嘲りの意味も強く感じられた。
「だいたい、アロイス様はもう豚というほどの体じゃないのに! ちょっと人より肉厚なだけだもの!!」
アロイスと出会ってから七か月。もはや彼の首が肉に埋もれることも、顔が肉に隠れることもない。ヒキガエルと呼ばれた顔も、アインストで買い占めた薬のおかげで、少しずつましになってきている。
カエル脱出までは、あともう少し。その厚めの肉を全体的に削ぎ落し、むちむちの手足に筋肉をつけ、服装や髪形を、人目を気にして整えてくれればいい。肌は最悪、化粧で隠せる。
「ありがとうございます――――でいいんでしょうか」
アロイスはどこか自嘲気味に、しかし珍しく声を上げて笑った。傷ついた様子がないのは、カミラの性格を分かっているからだろうか。
いや――。
「よくない!」
カミラの性格を分かっているなら、笑ってはいけなかった。
「ありがたくなんてないわ! こんなこと言われて、悔しくないんですか! 見返そうとは思わないんですか!?」
自分で言ったくせに、カミラは自分で腹が立つ。それなのにアロイスはけろりとしているものだから、一人で怒る自分が馬鹿みたいで、余計にしゃくだった。
「そうやって言ってくれるのは、あなたかクラウスくらいですよ」
アロイスは肩をすくめると、堪えた様子もなくそう言った。
「あれはいい男でしょう」
「いい男!?」
どこをどう見ていい男などと言えるのか。信じられない気持ちで、カミラは繰り返した。
たしかに、顔は悪くなかった。身なりも、アロイスに比べたらずっと気を遣っているのがわかる。巻き毛の髪をきちんと整え、いささか堅苦しすぎる使用人服を、だらしなくない程度に着崩して、なかなか洒脱な雰囲気もあった。
色白で、どことなくはかなげな容姿は、どことなくユリアン王子に似ているとさえ思った。
だけど、態度でなにもかも台無しだ。クラウスなど、不真面目で、立場もわきまえられない無礼者でしかない。
それにそもそも、カミラは軽薄な男が大嫌いなのだ。
「いい男なんかじゃないわ! あんな男よりも、ずっとア――――」
――――ア。
言いかけて、カミラは反射的に言葉を飲み込んだ。
先ほどまでの熱が、すっと冷めていく。勢い任せに出てきかけた言葉の違和感に、カミラは瞬いた。
息を吐くと、カミラは視線を伏せた。不自然な沈黙は、長いようで短い。わずかな間の後、カミラは妙に冷静な声で、言葉の続きを吐き出した。
「ユリアン殿下の方が、ずっといい男だわ」
内心は、きっとクラウスのことなど、もうどうでもよくなっていた。
「殿下と比べてはかわいそうですよ」
カミラの言葉に、アロイスはため息に似た笑い声を落とした。表情には、かすかな寂しさが見える。
「人柄も容姿も優れた方ですし――なにより、あなたが恋した相手ですから」
「…………ええ」
恋をした。本当に好きだった。でも叶わなかった。失恋と同時に、手ひどい仕打ちを受けた。
それでも、今もカミラは忘れられない。
カミラにとってのいい男は、いつだってただの一人きりだった。今までも、これから先も、ずっとそのはずだ。
――未練がましくたって構わない。ずっと好きだったんだもの。
「ユリアン殿下よりいい男なんていないわ」
言い聞かせるようにそう言うと、カミラは両手を握りしめ、顔を上げた。
視線の先に、アロイスがいる。彼は目を伏せている間も、ずっとカミラを見ていたらしい。赤い目が、カミラを映して細められる。
「本当にお好きなんですね」
「そうよ。ずっと好きだったんだもの」
ふん、と顎を逸らして言えば、アロイスが言葉にしがたい息を吐く。それから、カミラから目を離さないまま、ためらいがちに尋ねた。
「どうしてお好きになられたのか、お聞きしても?」
カミラは眉間にしわを寄せ、アロイスをじとりとにらみつけた。
○
カミラがユリアン王子と出会ったのは、今から十と一年前のこと。
まだ、カミラが七歳の時だった。
出会ったのはほんの偶然。ちょうどカミラが、両親と共に王城を訪ねていた時だった。
あの頃からカミラは短気で、かんしゃくを起こしやすい性格だった。あの日もなにか些細なことで機嫌を損ね、両親の元を逃げ出したはずだ。
一人で王城を歩いていたときに、カミラはユリアン王子に出会った。当時は相手が王子と知らず、まったく物おじせずに声をかけた覚えがある。
ユリアン王子は一人きりだった。どことなく物憂げで、びっくりするほどきれいな男の子だった。それで、とても寂しそうだった。
だからカミラは、手に持っていた菓子をあげた。それはカミラが、生まれて初めて作ったビスケットだった。
ユリアン王子は少しのためらいの後、ビスケットを受け取り、食べてくれた。
子供の手で作った、形の歪んだつたないビスケットを、おいしい、と言ってくれたのだ。
誰かに「おいしい」と言われたのは、それがはじめてだった。
○
「――――それだけですか?」
アロイスが瞬き、カミラを見やった。
だが、話の続きはない。
これがすべてで、カミラにはなによりも大切なことだった。
「それだけです」
カミラは言った。思いがけず強い言葉に、アロイスがはっとしたように目を見開く。
驚いた瞳がカミラを映す。アロイスがなにに驚いているのかは、カミラ自身も察していた。
「なにか、文句でもありますか」
不機嫌な声は、かすかに震えていた。
顔が赤くなっているのが、カミラ自身でもわかる。悔しさに両手を握りしめ、アロイスを睨みつける。
気の強いカミラの瞳が潤む。泣いてたまるかと唇を噛むほど、悔しくてたまらなくなる。
羞恥と怒りと胸の痛み。言わなければよかったという後悔。それから、捨てきれない恋情が、カミラの中でないまぜになっている。
たったこれだけで、カミラはもう十年以上もユリアン王子が好きだった。
それの、なにが悪い。
幼い日のことを、カミラはこれまで、誰にも話したことはなかった。テレーゼにはもちろん、両親にも、友人にだって話したことはなかった。
些末なことと一蹴され、笑われるとわかっていたからだ。そんなことで人を好きになるのかと、カミラの恋を軽んじられるからだ。くだらないことだと、切り捨てられたくなかったからだ。
もしかして、中には真面目に聞いてくれる人もいたかもしれない。それでもカミラは、話すことが怖かった。
カミラが生きてきた中で、一番大事な日のことを、笑われたくなかったのだ。
「いえ」
カミラの震える瞳を見つめながら、アロイスは否定した。
「うらやましいと思いました」
「うらやましいですって?」
眉根を寄せる不機嫌なカミラに、アロイスは頷いた。真摯な赤い目が、カミラをまっすぐに映して瞬く。
「私がその場にいても、同じことをしましたのに。あなたと出会えた殿下が、うらやましい」
アロイスは笑いもしないし、馬鹿にもしない。
真面目な顔をして、それ以上に真面目な声で、そんなことを言った。