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クラウス・レルリヒ。
レルリヒ男爵家の長男で、しばしば話に出ていた、例の厨房のサボり魔である。ギュンターは、カミラにそう耳打ちした。
年は二十。その整った容姿と家柄、話しやすい性格から、屋敷の若い娘たちからはたいへん人気があるらしい。一方で、厨房に来る娘たちを片っ端から口説くため、同じ料理人たちからは蛇蝎のように嫌われているのだとか。
しかし、彼がどれほど仕事をサボろうが、女にうつつを抜かそうが、他の料理人たちは文句を言えなかった。
その理由は三つある。
第一に、彼がレルリヒ男爵家の長男だからである。
モンテナハト家の使用人は、その大半が、力ある三つの貴族家につらなる。そして、それぞれの家のつながりも深い。順当にいけば、いずれはレルリヒ家の当主となるであろう男に、媚は売っても喧嘩などはそうそう売ることはできなかった。
第二に、彼が天才だからだ。
彼の同輩に、技術で並び立つ者はいない。それどころか、菓子作りの腕前はギュンターさえをもしのぐ。彼が女遊びに励んでも、どれほど仕事をサボっても、惜しいだけの腕がある。毎日まじめに、熱心に料理に打ち込む人間の努力より、彼のほんの数時間の料理の方に価値がある。
彼の作る料理は、味が優れているのはもちろんのこと。見た目にも華々しく、人の努力をあざ笑うように美しい。
第三に、彼はアロイスのお気に入りである。
クラウスがレルリヒ家の放蕩息子であり、父親に勘当同然に家を追い出されたのは、誰もが知っていることだ。そのまま、モーントン領を離れようとした彼を引き留め、モンテナハト家に置いているのは、アロイスの意向である。
モンテナハト家に来てもなお、その堕落した性質は治らず、アロイスにさえ無礼を働く始末だが、当のアロイスはほとんどクラウスを咎めない。どれほど周りがクラウスの横暴を訴えても、アロイスは彼を重用し続けた。
ひとえに、クラウスの作る菓子の美味さに参ってしまったせいだ。とは、もっぱらの噂である。
○
クラウスは焼き上げたビスケットに、卵白を混ぜた砂糖で色を描く。
赤、青、白、黄色。慎重に色を重ねながら、描いていくのは、鮮やかな花びらだ。ビスケットの形に合わせて花弁を描き、重ね、本物の花のように彩っていく。
それは、菓子作りというよりも、絵画に似ている。精緻な色の塗り重ねだった。
「きれいでしょ」
思わず目を奪われるカミラに、クラウスは軽率に笑った。描いたばかりの白い花をカミラに見せ、どことなく自慢げに口を曲げる。
「これ、ブルーメの名産。ゼーンズフトの花。知ってる?」
「いいえ」
白い花には、うっすらと赤い色が滲んでいる。花びらの一枚一枚は細く、先端が丸い。華やかでありながら、どこか柔らかい印象を与えた。
王都ではあまり見ない花だった。モーントン領に来てからも、同じ花を見たことはない。
「春になると一斉に咲いて、香水の原料にもなる。ゼーンズフトの花。黒髪がきれいな君に、あげるよ」
そう言うと、クラウスは返事を待たずに、カミラにビスケットを押し付けた。
手のひらよりも小さな花を手に、カミラは眉をしかめる。
――――どうやったら、こんなものが作れるのかしら。
クラウスの態度は気に食わないが、作り出すものは本物だ。見ていてわかってしまう。才能というものは確かにあって、それは本人の性質とは一致しない。
どうやらこれらのビスケットは、アロイスのために作られているらしい。
彼は気が向いたときに、ほんとうにたまに、アロイスのために料理をする。作るのはたいてい、鮮やかな菓子だった。
こういうとき、クラウスは厨房の視線を一身に集める。彼の鮮やかな腕を盗み、その座を奪おうと思う野心深い料理人たちが、一挙手一投足を見守るのだ。
しかし、クラウスは視線を意にも介さない。盗めるものなら盗んでみろ、とでも思っているのだろうか。薄く笑いながら、作り上げたビスケットを、底の深い皿に飾り付ける。
「それでこっちは――」
カミラに渡した以外のビスケット。皿の上に彩られた、花畑のようなそれを見下ろして、クラウスは口を曲げた。
手近に置かれたメープルシロップの瓶を取り、おもむろにふたを開けると、そのまま花畑の上にひっくり返す。黄金色のシロップがなみなみと満ち、花は飲まれ沈んでいく。
クラウスは目を細め、嘲るように口ずさんだ。
「ほーら、あっという間に豚のエサ」
反射的に、カミラはビスケットを調理台の上に叩きつけた。
「なんですって……!?」
ビスケットは割れ、花模様も砕ける。惜しいとは思わなかった。美しいとも、もう思わない。
「あなた今、なんて言ったの」
「あ、怒るんだ?」
睨みつけるカミラに対し、クラウスは意外そうに肩をすくめた。だけど手は止めない。空になったシロップの瓶を置くと、今度は色づいた砂糖の粒を、さらに上から振りかける。
「だってそうじゃん。こんなの、豚以外の誰が食べるの? 君、食べたいと思うの?」
「あなたの主人が食べるものなのよ!?」
「だからなに? 主人が食べるからって、こんな砂糖のかたまりが美味しくなるわけないじゃん。だいたい主人って言っても、俺あいつ嫌いだし」
「嫌いって! だって……モンテナハト家の伝統なんでしょう!?」
モンテナハト家の主人には、最高の料理を提供する。最高の料理とは、高級品である砂糖と塩、そして油をふんだんに使ったものなのだ。
アロイスもゲルダも、そう言っていた。カミラ自身も、『おかしい』とは思っていたけれど――。
以前のカミラであれば、クラウスの言葉に同意をしていたかもしれない。言っている内容だけであれば、カミラは同じことを思っている。アロイスの食べるものは、まともではない。人間の食べるものではないし、カミラだって食べたいとは思わない。
――なのに、どうしてこんなに腹が立つの。
「でも俺、モンテナハト家じゃないし――」
悪びれずに言いかけたクラウスの声が途切れる。
代わりに、彼の頭に拳が落ちた。
「いい加減に黙れ」
「いったー……料理長、手加減してくださいよ」
クラウスの軽口に、ギュンターは答えない。彼の頭に拳を置いたまま、厳めしい顔をこわばらせ、カミラに顔を向ける。
「お前はもう戻れ」
「私が!? 出て行くのはあいつじゃない!」
「怒鳴るだけで手を動かさないやつは、厨房にはいらねえんだよ。お前今日、ぜんぜん集中もできてねえだろ。ちょっと頭冷やして来い」
「怒らせたのはあいつだわ!」
怒り任せにクラウスを指させば、彼はとぼけたにやけ顔のまま、カミラに向けて手を振った。出て行くのはお前だ、とでも言うつもりだろうか。
「だけど怒ったのはお前だ。とにかく一度落ち着いてこい。いくら怒鳴ったって、こいつは聞かねえんだから」
ぐっとカミラは唇を噛む。ギュンターはあくまで、カミラを追い出すつもりだ。
厨房の邪魔をしているのは、間違いなくカミラ一人だ。アロイスへの侮蔑に、他の誰も腹を立てない。クラウスはそういうものだと、みんな割り切ってしまっている。
悪いのは間違いなく、クラウスだというのに。
――出て行けと言うのなら、出て行ってやるわよ!
こぶしを握り締めると、カミラは苛立ちをかみ殺した。荒々しくきびすを返せば、今度は背後から挑発的な声が飛ぶ。
「またね。今度きたら、菓子作りを教えてあげるよ」
「菓子なんて作らないわよ!」
「なんで? 俺が教えたらすごいよ。食べさせたい相手とかいないの? すっげー男受けいいと思うんだけど」
相手は俺でもいいよ、などと笑うクラウスを、カミラはぎっと睨みつけた。
「食べさせたい相手はいるわよ」
それはもちろんクラウスではない。アロイスでもない。
そう、相手はアロイスでもない。
いつだって、ただ一人だった。
「だから、菓子は作らないの」
捨て台詞のようにそう言うと、カミラはクラウスに背を向けて、大股で厨房を出て行った。