3.5-4(終)
昼の片づけはすっかり終わり、夕食時には早すぎる。
人気のない厨房に、冬の冷たい風が吹く。
風に吹かれながら、アロイスは一人、黙々と人参の皮を剥いていた。剥いた後、どうするのかは誰も知らない。
「あの……アロイス様」
カミラは一人きり、無心に作業するアロイスの背に、いくぶんか遠慮がちに呼びかけた。
フリーダに言葉を返し、去っていく彼女を見送った後、彼はずっと厨房で、野菜の皮を剥き続けている。鬼気迫るその様子に、さすがのカミラも声をかけるのがためらわれたのだ。
「どうされまし――」
「カミラさん」
カミラの言葉をさえぎって、アロイスは振り向きもせずに言った。口調は強くもなく、弱くもなく、淡々としているように思えた。
「僕は彼女に、誠実に答えられていましたか?」
「……気付いていらっしゃったんですか」
「声が聞こえていました」
ぐ、とカミラは、後ろめたさと居心地の悪さに息を詰まらせる。考えてみれば当たり前だ。アロイスたちの声がカミラに聞こえていたと言うことは、カミラたちの声だって、アロイスには届くはずなのだ。
しかし、アロイスにはカミラを咎める気はないらしい。彼は一つ息を吐くと、囁くように続ける。
「僕は間違った答えを返していたんでしょうか」
抑揚のない言葉の中に、渦を巻くような不安が見える。カミラは無言で眉を寄せると、意を決してアロイスの横に立った。
真横から見たアロイスは、伏し目がちで、どこか息苦しそうだった。人参を剥く手は止めないまま、一度だけ、横に立つカミラに視線を向ける。その表情は、まるで教師から与えられた問題に答え、正誤の判定を待つ子供みたいだ。
「……間違ってはいなかったと思います」
カミラは不安げなアロイスを見ながら、息を吐くように言った。
フリーダにかけたアロイスの言葉は、優しく、諭すようであり、相手を傷つけることのないものだった。同じ状況に陥ったときに、頭の中で想定し得る、最良の答えだったと思う。間違いは一つもない。教師が出した問題であれば、満点を与えるような回答だった。
「でも、正しい答えではなかったわ」
フリーダは、教師ではない。問題を出したわけでもない。彼女にとって欲しいのは、満点の回答ではなく、アロイスの本心だ。宥められたいわけでも、諭されたいわけでもない。傷つくことだって、構わなかった。
アロイスにはそれが、わからなかったのだ。
アロイスはまた、無言で人参の皮を剥き続ける。傷ついた顔をしていることに、彼自身は気が付いているのだろうか。アロイスの伏せた赤い瞳は、底知れないようでいて、ひどく浅い。
カミラはいつだったか、アロイスに向けて『誠実ではない』と言ったことを思い出していた。カミラの言葉に、アロイスはひどく腹を立てていた。あれは、自分自身を『誠実だ』と思っているからこそ、気に障ったのだと思っていた。
――逆だわ。
気難しいアロイスの横顔に、カミラは口を引き結ぶ。
アロイスは優しい。アロイスは穏やか。誰もがそう言う。誰に対しても同じ。誰に対しても変わらない。それはなんだか、張りぼてめいている。
――誠実ではない自覚があるから、あんなにむきになったんだわ。
しょりしょりと、人参の皮を剥く音がする。
かける言葉もなければ、かけられる言葉もなく、風だけが二人の間を吹き抜けた。
○
剥き終えた人参を、どうするべきか。
我に返った頃には、取り返しのつかない量になっていた。カミラとアロイスは互いに顔を見合わせて、苦い顔をする。夕食の支度にとやってきた、モンテナハト家の料理人も交えて、不毛な作戦会議をしていた。
「やっぱり夕食かしら。人参だらけにするしかないわ」
「いやいや、さすがに一度の食事じゃ、この量は使い切れませんよ」
カミラの言葉に、料理人が参ったように首を振る。アインスト一帯の人々に配っても余るほどの量を、よくもアロイスは捌いたものだ。
「すまない。どうにも考え事に夢中になり過ぎていた」
アロイスは、めったにしない失態に肩を落としている。料理人はそんなアロイスの様子を、物珍しそうに見つめてから、腕を組んだ。
「うーん。どうしますかねえ。すりおろして…………ケーキにでもして焼いてやりますか?」
「ケーキ?」
「そう。最近は子供連中が、甘いものが欲しいってよく騒ぐんですよ。砂糖が少ないから、どうしようかと思っていたんですけど。人参なら甘みがあってちょうどよいんじゃないですかね」
なるほど。悪くない考えだ。アロイスも「良い考えだ」と頷いている。どうにか人参の行く先が決まりそうで、ほっとしているようにも見えた。
「それなら、私も手伝おう。カミラさんも、手伝っていただけますか?」
「あ、いえ。私は遠慮します」
水を向けられたカミラは、反射的に首を横に振った。
料理が趣味で、炊き出しにも積極的に参加する。ケーキ作りも、当然のように手伝うと思っていたのであろう。アロイスと料理人は、カミラの否定に意外そうな顔をする。
二人の視線を受け、カミラは顔をしかめた。
「私、お菓子は作れないんです」
らしくもなく、カミラは言葉を濁すようにそう言った。