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大きな一つの沼を中心に、いくつもの小さな沼が広がるモーントン中央部。この沼のほぼすべてから瘴気が沸くと言われており、沼の表面は常にぽこぽこと泡立っていた。
沼は深く、よどんだ緑色をしていた。瘴気の強い沼地には、普通の草は生えないが、代わりに魔力を帯びた毒草が茂る。毒草の陰には、毒に強い泥色のヒキガエルがそこかしこに跳ねているのが見えるだろう。
この光景こそが、領外の人間が思い浮かべる代表的なモーントン領の姿であり、『沼地のヒキガエル』――――すなわち、アロイスの不名誉なあだ名の由来でもあった。
沼の周囲は湿地となっており、常に地面がぬかるみ、苔むしている。
山谷はなく、土地はひたすらに平坦だ。いくつもの浅い川が土地を横断して、湿地の形成に寄与している。地面にはところどころ亀裂が走り、川の水が地下へと流れ込んでいた。
アインストは、中心となる大きな沼地の一部を埋め立ててつくられた町だ。沼を仕切り、流れ込む水を断ち、乾燥した上に家を建てる。そうして出来上がった町は、楕円型の沼をかじり取ったような、奇妙な形をしていた。
町に並ぶのは、泥からできた土づくりの家々だ。四角四面な家には個性がなく、よそ者には見分けるすべもない。
大通りには声がなく、子供たちは騒がず、女たちはおしゃべりをしない。沼地へ採掘に向かった男たちは、兵士のように統率の取れた動きで沼を掬い、地下を掘り、魔石を掴みだす。
それだけ生活を、この町は百年、二百年と続けてきた。
一見して厳格、生真面目。感情のない古い町。
だが、そこにも人の心はあり、誇りがあり、陰湿な楽しみがある。
○
――異様だわ。
カミラはアインストの町を眺め、眉をしかめた。
空は暗い曇り空。瘴気は領都よりもいっそう強く、肌に触れる空気が痛い。石の家々に吹く風は冷たく、冬をより寒いものへと変えていた。
カミラが滞在しているのは、アインストにあるモンテナハト家の別邸。大通りに面した石の屋敷だった。要するに、アロイスはカミラに根負けしたわけである。
アインストで被災した人々を訪ねた後は、グレンツェへ向かう。グレンツェへ行ったあと、少し戻って魔石の鉱脈を探索する。ここで数日、あるいは数十日。アロイスの魔力を頼りに、災害に原因を探る予定だった。
そのアロイスは、今は町の重鎮たちからの挨拶を受けていた。部屋に通されるよりも早く、何人もの相手をさせられているのも、一種の慇懃な嫌がらせのように思えてならない。
災害からは、すでに数日が過ぎている。見る限り、すでに被害の痕跡はない。
どうにも話を聞く限り、現場は鉱脈ではあるが採掘地ではなく、人の立ち入りのない森であったらしい。魔力の暴発というが、起こったこと自体も地下での爆発と、それに伴う地震。それに、強い瘴気の噴出のみ。現場近くは木々が倒れたり、獣が巻き込まれたりとなかなか凄惨だったらしいが、人の住む町までは距離があり、被害らしい被害は少ない。せいぜい地震で近隣の家が一棟倒壊し、瘴気の噴出で魔力持ちが数人、体調を崩した程度だったという。
大騒ぎした割には、なにやら呆気ない。しかしまあ、被害がないのは良いことだ。この調子では、グレンツェの方もたいしたことはないだろう。それだけは安堵できる。
しかし、それ以外は最悪だ。
「奥様! ここの人たち、本当に無礼です!」
腹を立てているのは、カミラの侍女であるニコルだ。彼女はカミラの髪を梳かしながら、堪えきれないように言った。
「奥様が同行されることなんてとっくに伝わっているはずなのに、『突然のことでお迎えのご用意ができていなかった』ですって! それで、こんな粗末な部屋に通すなんて!」
日当たりの悪い北向きの客間。別邸にある客間の中では、最も質の悪い部屋だ。他の部屋は準備ができていないから、とどうしてもここへ通されたとき、カミラ以上にニコルが腹を立てた。
「『まさか本当に来るとは思わなかった』なんて言ってましたよ! もう!」
「いたたたた!!」
怒り任せのニコルの櫛は、カミラの髪を必要以上に強く引っ張る。せっかく近頃は上手になってきたというのに、まだまだ修行が足りていない。
「しかも! この部屋だってきれいになんてしてないじゃないですか!」
痛みを訴えるカミラにも気が付かず、ニコルは荒い息を吐きながら言った。
ニコルの言う通り、部屋は見える限り手入れをした形跡がない。長い間使われていないらしく、ほこりと黴のにおいがする。どうにか部屋の体裁だけでも整えたのか、ベッドだけはまだ使えそうだ。しかしそれも、決して質の良いものではない。
冷遇されているのは明白だった。普段のカミラなら、一人で盛大に腹を立て、八つ当たりに枕でも投げつけているところだ。
だが、今のカミラは違う。
「モンテナハト家の奥方にこんな態度! 許せませ――――ああっ!!」
ニコルの悲鳴と共に、手に持っていた櫛が破裂した。木製の櫛が粉々に砕け、ニコルの手の中から破片がぼろぼろと零れ落ちていく。
ニコルの不安定な魔力が、またしても暴発したのだ。
魔力の強いニコルは、瘴気の影響を受けやすい。濃い瘴気の前では、魔力が不安定になり、ちょっとしたことで揺らいでしまう。
ちょっとしたこととは、体調だったり体力だったり、あるいは感情だったりする。
怒り心頭に達したニコルに魔力の統制などできず、哀れな櫛が粉になったのだ。
ちなみにこれで三本目である。
「ニコル! なにやってんのよもう!」
「はい! すみません!」
「なんにでも腹を立てない! 我慢しなさい、我慢! 魔力制御も仕事の一環よ!」
自分のことを棚に上げ、カミラはニコルを叱りつけた。カミラ自身、今までさんざん腹を立ててきた身ではあるが、それとこれとは話が別だ。カミラは腹を立てても魔力が暴発することはなかったし、だいたい、自分ができないからって他人に許していたら、カミラが叱れるものなんて何一つなくなってしまう。
それになにより、今のカミラは、ニコルを叱れるだけの態度を示せていた。
たしかに腹は立つ。
いかにも「お前はなにしに来たのだ」という態度で出迎えられたとき。馬車から荷物を下すとき、アインストの下男が「予定にない仕事だから」と一切手を貸さなかったとき。侍女たちがカミラを避けて逃げるとき。この日当たりの悪い部屋に通されたとき。
カミラはおそらく、ニコル以上に腹が立った。そもそも短気なカミラだ。アインストのこの態度だけで、普段ならどれほど怒鳴っているかわからない。「全員クビだ」と吐き捨てて、アロイスにあることないこと告げ口していたことだろう。
だが、そんな苛立ちも、ニコルが先に怒り出すせいで、どうにも消化不良が否めない。ニコルが怒れば魔力が暴発。暴発すれば物が壊れる。ニコルを止める人間が自分しかいないとなれば、カミラは怒りをさておいて、ニコルを宥めるほかにない。
そんなこんなで、アインストに来てから、カミラはすっかりニコルの静止役となっていた。
しょんぼりと落ち込み、ニコルは砕けた櫛を片付ける。箒を手に、床を掃くニコルを見ながら、カミラは眉間にしわを寄せた。
――人選を誤ったわ。
瘴気が強いとわかっていて、ニコルを連れてきたのは失敗だったか。
だけど、カミラにはニコルの他に信頼できる侍女がいない。領都からニコル以外の侍女を連れて行こうとは、思いもしなかった。アインストの侍女たちも、この調子だとろくに働きもしないだろう。
問題を起こすニコルと、問題はないが態度の悪い他の侍女たち。どっちがましか。
――ニコルがいた方が、気は紛れるわね。
アインストでのカミラの扱いは、グレンツェよりも下手したら悪いかもしれない。なのに、ニコルが大騒ぎするおかげで、くすぶるような怒りや苛立ちを、いつの間にか忘れてしまうことがある。
それはいささか不本意で、気持ちとしては少し楽。そしておそらくは、まあ、悪いことじゃない。
――――だろうか?
「すっ、すみません!」
思考を破るニコルの謝罪と、ぱきんと乾いた破裂音が響く。
今度は落ち込みから、箒が犠牲になったらしい。
ニコルの手の中。砕けたほうきの破片を見て、カミラはため息をついた。




