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3-2

「なぜ、私に無断で侍女の処分をしたのですか」

 肌荒れに効く薬を手に、アロイスの部屋を訪れようとしたとき、カミラは低い女の声を聞いた。

 中年に差し掛かった女の声は、落ち着いて威圧感がある。どことなく硬質で、感情のにじまない語り口に、カミラは反射的に足を止める。ちょうど、アロイスの部屋の扉が見えるところ。扉の前で静かに言いあう二人が見える。

 一人は、確かめるまでもない。ゲルダだ。

 ゲルダに相対しているのは目当てのアロイスである。カミラからは、ちょうど彼の巨大な背中だけが見えた。

 二人は、カミラに気がついてはいないようだ。静かな会話を続けている。

「私が屋敷に不要と判断したからだ」

「彼女はエンデ家直系の娘。一存で処分できる相手ではありません」

 主人であるアロイスを前にしても、ゲルダの態度は変わりない。細い背を伸ばし、白髪交じりの茶髪をきちんとまとめ、顎をそらして立つ。両手は前で組み合わせ、顔はアロイスにまっすぐに向かう。カミラに向けるような明確な敵意はないものの、アロイスに向ける視線も、親しみのあるものではなかった。

「彼女は同僚をいじめ、屋敷に損害を出した。私の客人に、してはならないことをした。これでも理由は足りないのか」

「損害も、あの女へしたことも、すべて彼女自身がしたことではないはずです。いじめとは、エンデ家内での諍いでしょう。アロイス様が介入することではありません」

「私の屋敷で起こったことだ。私が介入するのは当然だろう」

 二人の口調は、決して荒々しいものではない。だが、交わされる視線は険しかった。

 アロイスの言葉に、ゲルダは無言で視線を返した。アロイスもまた、無言で視線を受け取る。言葉を交わしている時よりも、なぜかずっとひやりとした。


 先に視線を外したのは、ゲルダの方だった。

「――――あの女が…………」

 言いかけて、続く言葉を飲み込む。ゲルダは視線をかすかに伏せ、諦念のこもる深い息を吐いた。

「以前のアロイス様は、もっとわきまえておられました。エンデ家がどれほど尽くしてきたか、お忘れではないでしょう」

「それとこれとは――」

「彼女はエンデ家との架け橋でもありました。エンデ家との対話、歓待、調整を任せていました。彼女がいなくなった今、代わりを見繕う必要があります。誰かをやめさせれば、穴埋めが要るのです。アロイス様はそこまで考えておられましたか?」

 言葉を挟ませず、淡々とゲルダは語る。大きな声でもないのに、ゲルダの声は良く響いた。

「女使用人一人一人の役割を見て、采配するのは侍女長である私の役割です。些事に惑わされれば、屋敷の管理にも支障をきたすでしょう。今後は必ず、私に話を通してくださいますように。よろしくお願いいたします」

 抑揚なく言い切ると、ゲルダはアロイスに一礼した。そして、これで要は終わりだとばかりに、アロイスの横を通り過ぎる。背筋を伸ばしたまま、表情を変えずに通り過ぎるゲルダに、アロイスは苦々しく顔をゆがめた。


 が、カミラはその表情を見てはいない。

 ゲルダが一礼して、顔を上げたとき。彼女の視線が、カミラを捉えたからだ。

 ゲルダは、はじめからカミラのいる廊下の先に用があったのか、それともカミラがいるからこちらに来たのか。まっすぐにカミラの方へと向かってくる。

 そして、すれ違いざま。立ち止ることなく、歩く速さを緩めることもなく、ただ一瞥だけをカミラに与えた。


 静かで深い憎悪のこもった視線を受けたのは、ほんの一瞬だけだった。

 言葉もない。足も止めない。呼吸さえもする間もない。

 なのに、底冷えのするその目が、カミラの体をすくませた。


 恨み、妬み、嫌悪、悪意。そういったものは、王都でいくらでも受けてきた。カミラには敵が多かった。人から嫌われ、疎まれることも少なくなかった。悪意を持って接する人間の顔を見てきた。

 だけど、ゲルダのあの視線は――――――知らない。


 とび色の瞳は暗いうろのようにかげり、ただ闇だけが覗いていた。



 ゲルダの足音が遠ざかっても、動けずにいるカミラに、少し遅れてアロイスが気付いた。

 驚いたように目を見開くと、少しばつが悪そうに、彼はカミラに近付いてくる。巨体であることは変わらないが、その体がもたらす局地的な地震は以前よりもおとなしい。

 おとなしいが、そのことにカミラは気が付いていない。ひやりと冷たいものが、胸の中にまだ残っている。

「カミラさん、もしかしてずっとそこにいらっしゃいましたか? お恥ずかしいところを……」

「あ、いえ」

 はっとして、カミラは顔を上げる。

 いつの間にやら、アロイスがカミラの目の前に立っていた。


 昨今、痩せた痩せたと評判の巨体は、着る服がなくて難儀しているらしい。おかげさまで新しい服を新調し、以前よりも清潔感が増している。

 しかし、カミラの目から見れば、依然として巨大である。変わったなどと気が付くのは、長年勤め、アロイスを見続けてきた使用人たちだからだ。ヒキガエルめいた爛れた顔も健在で、肉に埋もれた赤い目が、いっそうカエルを連想させる。まだまだ、カミラの理想には程遠い。

 アロイスは、その射程外の顔をくしゃりと歪め、困ったように笑った。

「ゲルダにはなかなか頭が上がらなくて。長いこと、彼女が屋敷の使用人を取り仕切ってくれていましたから。……でも、それじゃあ駄目だったんでしょうねえ」

 どことなく悲しげに言うアロイスに、カミラは息を吐く。不本意ながら、アロイスの情けない発言と、目を奪う容姿のおかげで、気持ちが若干落ち着いてきた。

 ――たかだか一瞬睨まれただけだわ。

 しかも、ただの使用人に。

 ――なのに、どうして私が気後れしないといけないのよ!

 落ち着くと、今度は腹が立つ。ゲルダの視線も遠くなれば、恐怖さえも幻のようだ。一介の中年使用人に睨まれて竦むなんて、馬鹿馬鹿しい。現状はアロイスの客人扱いで、よそ者に過ぎないとはいえ、カミラの方が身分としてはよほど上のはず。なにを怯える必要があるというのだ。

「アロイス様、あのゲルダって何者なんです?」

 反動で妙に強気に、カミラはアロイスに問いかけた。

「まさか、あの女もエンデ家の人間なんですか」

 この屋敷には、エンデ家の人間が多い。モンテナハト家との浅からぬ縁を持つエンデ家は、上級使用人から下級使用人。男性女性問わず、あちらこちらに見える。エンデ家の特徴である金髪は、だいたい四人いれば、一人は混ざっていると思って間違いなかった。

 ゲルダの髪は金ではなく、明るめの茶髪だ。顔立ちもきつめで、愛らしい顔立ちが特徴のエンデ家とは、少し異なって見える。しかし、エンデ家に対して妙にかばいだてをする。モンテナハト家の侍女長として、エンデ家の縁を重視しているだけなのかもしれないが、もしかしたら彼女自身がエンデ家にゆかりのある人物なのかもしれない。

 そう思ったカミラの言葉を、アロイスは首を振って否定する。

「いえ、彼女はエンデ家ではありませんよ。同じくらい長く仕えてくれている家柄ですが……」

 言ってから、ふとアロイスは言葉を切る。なにを思ったのか、カミラの顔をまじまじと覗き込み、少しの間悩むように瞬いた。

「カミラさん」

「な、なんでしょう?」

 思いがけずまじめなその表情に、カミラは少し怯んだ。足を引くカミラに、アロイスは続ける。

「ちょっと、お勉強をしましょうか。モンテナハト家と、この土地について」


 やだ。



 ○


 嫁ぎ先の家について学ぶのは、貴族令嬢としては当然のことだ。

 これから女主人となる家。その歴史、成り立ち、現在の情勢などを知らなければ、妻としての務めは果たせない。

 だが、これまでカミラは、モンテナハト家についての知識をほとんど持っていなかった。アロイスも、強いて教えようとはしなかった。

 それは要するに、カミラに対して妻の立場を求めてはいなかったからだ。結婚相手として預かっておきながら、あくまでもカミラは客人。なにも知らないままでよい、と捨て置かれていたに過ぎない。

 だが、最近のアロイスは少しばかり様子が違う。グレンツェでの喧嘩、ニコルでの一件を経て、カミラに対する態度が変わってきている。

 カミラを認め、客人扱いから――役割を求めるようになっている。節がある。


 勉強をしようと言ったのは、つまりはそういうこと。

 カミラが嫌だと思うのも、そういうことだ。


 ――まだ、時間が欲しい。


 こっぴどく失恋し、王都を追い出されてから四か月。短い時間ではない。

 だけど、カミラの長い恋に対しては、あまりにも短すぎた。

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