表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/145

1-1

 沼地の広がるモーントン領。

 濃い瘴気に包まれ、年中湿度の高いこの土地は、一方で魔石の産出地でもある。

 沼地の底からあふれる瘴気は、強い魔力から発せられる。強い魔力は年月を経て結晶化し、魔石と呼ばれる宝石へと変化するのだ。ゆえに、瘴気の濃さは魔石の採掘量とも比例する。

 魔石は、夜の明かりや夏の冷気、冬の暖に利用される。あるいは船の推進力。最近では、歯車を動かすための動力としても使われる。人々の生活には欠かせないものだ。

 モーントン領の魔石は魔力も高く、質も良い。沼地と呼ばれ避けられる一方で、魔石の人気は高く、その収益は領土を豊かにさせた。


 その結果が、罪深い美食の文化である。


 〇


「アロイス様! またそんな、肉の素を!!」

 そう叫ぶカミラの前で、アロイスが噛り付いたのは、肉の素こと炭水化物。小麦粉のかたまりを油で揚げた上、その表面を砂糖で塗り固めた凶悪極まりない食べ物――その名もドーナツである。

「い、いやしかしカミラさん。今日は夜まで仕事ですし、栄養を取らないと体が――」

「体に栄養を余らせているじゃないですか!!」

 全身の余剰な栄養を震わせて、アロイスがひえっと肩をすくめた。縮こまると、首周りの肉に顔が埋もれ、肉の襟巻のように見える。その襟巻の間から、じっとり汗がにじみ出るのを見て、カミラは内心でうめいた。

「アロイス様、あなた一日に何食食べているかわかります? 朝起きて食べて、朝食を食べて、昼食前に間食して、昼食食べて、おやつを食べて、夕食食べて、最後に夜食して! 七食! 普通の人の倍以上食べているんですよ!?」

 しかも食べるものは、味付けが濃くて脂っこいものばかり。菓子は砂糖まみれで、菓子を食べているのか砂糖のかたまりを食べているのかわからないくらい。

 カミラも裕福な生まれで、それなりに豊かな食生活を送ってきたが、こんな生活は初めてだ。むしろこれは、豊かというより、食暴力と言った方が近い。

 濃い味と脂は暴力的で、重く抉るようにカミラの腹を殴りつける。おかげでカミラは、食が細ったくらいだ。

 しかしアロイスは、カミラの想像の上を行く。

「カミラさん、それは違います。寝る前に簡単な食事をとっているので、正しくは八食です」

「このお肉!!!!」

 当たり前のようなアロイスの発言に、カミラは思わず声を荒げてしまった。それから、はっとして口を押える。これまでさんざん肉だのカエルだのと言ってきたカミラではあるが、時々ふと我に返って、「言い過ぎた」と手遅れ気味に自覚することがあった。

 相手はこれでも、王家の血を引く公爵閣下だ。本来であれば、伯爵家の生まれで、そのうえ五つも年下のカミラが口答えをできる相手ではない。

 しかし、アロイスはカミラの暴言をものともせず、笑いながら二口目をかじっていた。まあまあ、などとなだめるように、砂糖で汚れた肉厚な手を振る。カミラはめまいがした。

「せっかく作ってくれたものを、残すのも忍びないじゃないですか。今日のところは見逃してください。明日から気を付けますから」

 アロイスが笑えば、全身の肉が震える。まるきり、腹を膨らませたヒキガエルだ。

 こんな男が、カミラの未来の夫なのである。


 ○


 思い返せば、最初からアロイスはこんな調子だった。

 七日前。カミラがモーントン領に来たばかりのこと。彼の余りにおぞましい容姿に顔をそらしたときも、挨拶のキスを断ったときも、彼はカミラを咎めなかった。

 カミラが、「結婚できない」と言ったときも同様だ。これほど醜い男と結婚するくらいなら、殺された方がましだ。そんな覚悟を決めてまで告げた言葉さえ、アロイスは困ったように笑うだけで、受け流したのだ。

 よく言えば、器が大きく寛容であるとも言える。だけど悪く言えば、気が小さく、押しに弱い。カミラが怒れば、アロイスは困ったように肩をすくめ、嵐が過ぎるのをやり過ごすように黙る。カミラの言葉に、アロイスは一切怒らず、反論もほとんどしない。うんうんと頷き、「努力します」と返すだけだ。

 しかし、その努力をカミラは目にしたことがない。努力すると言った口で、湯水のように肉を飲み、菓子を貪ることをやめられない。

 その姿は、獣とどこが違うのか。カミラにはわからなかった。




 ――――あんな男と、どうやって結婚できるというの。

 アロイスの執務室から出ると、カミラはうつむいて息を吐いた。

 閉まりきった扉に背を向けて、一人肩を落とす。きっと部屋の中では、ようやくカミラを追い出せたと喜びながら、アロイスがドーナツを食べているのだろう。

 砂糖まみれの手。食べかすで汚れた床。吸い込まれるように消えていくドーナツ。思い返すだけで、カミラの身が震える。

 距離を置き、言葉を交わすだけならまだ良い。アロイスは噂ほど暗い性格ではないし、気が弱くても、受け答えははっきりしている。だけど夫婦となるなら別問題だ。

 夫婦になれば、いずれはあの分厚い手が、ドーナツでも掴むかのように、カミラに触れるのだ。ヒキガエルのような顔で、カミラにキスをするのだ。彼の脂の光る肌に、カミラは触れなくてはならないのだ。

 自分の想像に背筋を寒くし、カミラは慌てて首を振った。

 ――太ったままで結婚なんて、絶対にしないわ……!!

 カミラがアロイスと結婚したと知って、高笑いするリーゼロッテや社交界の人間たちの姿が頭に浮かぶ。最初から仲の悪かったリーゼロッテはさておいて、はじめは伯爵家のカミラに媚びながら、えげつない手のひら返しを見せた者たちに、笑い者にされるのは度し難い。あんな奴ら思い通りになんてなるものか。

「――諦めたりなんかしない。ぜったい、目に物を見せてやるわ……!」

 アロイスも、あれで王家の血を引く一人。王家の人間はみな、容姿に優れた者ばかり。となると、アロイスだって痩せればもしかするかもしれない。

 特に、彼の灰色の髪も、強い魔力を帯びた赤い瞳も、王族だけが持つ特殊なもの。分家ではあるものの、王家の血を色濃く引いているとも言える。

「そうなると、とにかくまずは痩せさせないと……。健康にも悪いし、あれだけ肉がついていたら、元が良くても台無しだわ」

「なにが台無しですって?」

「ひぃっ」

 不意に割って入った声に、カミラは思わず悲鳴を上げた。慌てて辺りを見回せば、ほの暗い燭台に照らされた廊下の先に、一人の中年の女が立っていた。

「アロイス様に、いったい何の文句があるのです」

 長年モンテナハト家に使える、侍女長のゲルダだ。アロイスとは打って変わって痩身で、きっちりとまとめた髪と、眉間に寄せられた深い皺と相まって、きつい印象を与える。

「夜遅くまで仕事をされるアロイス様の邪魔をしていたのですか」

「い、いえ」

「勤勉なアロイス様の数少ない楽しみを奪うつもりでしたか」

「そういうわけでは……」

 ゲルダは厳しい視線でカミラを見据えていた。枯れたような濁った緑の瞳には、あらわな不快感が宿る。

「あなたはご自分のお立場を理解されているのですか。ユリアン王子殿下に懸想し、殿下の想い人を貶めた、悪女」

 カミラの肩が跳ねる。反射的に顔を上げ、ゲルダを睨みつけるが、彼女はまるで意にも介さない。死にかけた虫を見るように、カミラを瞳に映すだけだ。

「ユリアン殿下が慈悲を与え、アロイス様が寛大であったから、あなたは今、自由が許されているにすぎません。さもなければあなたなど、どこかで野垂れ死んでいたことでしょう。ここにいられることを感謝し、出過ぎた真似は慎みなさい」

「な……っ」

 反論しようと口を開くが、続く言葉は出てこなかった。確かに、カミラの立場はゲルダの言う通りだ。世間の人々にとって、カミラはすっかり『悪役』で、国外追放まで望まれた身の上。今こうして自由に生きていられるだけで、感謝をしなければならないだろう――カミラが、本当に『悪役』であるならば。

「決して、余計なことをしてはいけません。アロイス様に見捨てられれば、あなたは生きてはいけない。そのこと、ゆめゆめお忘れのなきように」

 ゲルダはそう言い切ると、唖然とするカミラを横目に執務室の扉を開け、中へと入って行ってしまった。


 ゲルダの消えた部屋の前。呆然と一人立つカミラの横を、屋敷の侍女二人が通り過ぎる。彼女たちはカミラに一瞥をくれると、挨拶をするでもなく足早に去っていった。

「ね、今のがあれ?」

 その去り際、二人の侍女の囁き合う声が、カミラの耳に届く。

「噂の悪役女ってやつ? やっぱり悪そうな顔してるのね」

「アロイス様もおかわいそう。いくら見た目に難ありでも、もうちょっといいをお嫁にできるでしょうに」

「じゃあ、あなたがお嫁になりなさいよ」

「やだあ、冗談きついわ」

 夜の静まり返った廊下は、うかつな侍女たちのおしゃべりが思いのほか響く。気が付かない侍女たちは、くすくす笑い合いながら屋敷の奥へと消えて行った。


 少女たちの嘲笑をかき消すように、湿った夜の風が吹き抜ける。

 カミラは一人、唖然とその場に立ち尽くしていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ