2-終章
さらに翌日。アロイスが珍しくカミラの部屋へ来た。
実にばつの悪そうな顔である。
「ニコルから話を聞きましたよ」
アロイスはカミラに勧められた椅子に、少し腰を浮かせて座るなりそう言った。椅子に体を預けないのは、重みをかけると壊れてしまうからだという。
情けない。
とカミラが思うより早く、アロイスが自分で言った。
「私は自分が情けない」
「…………どうされました?」
カミラが尋ねると、アロイスがうつむきがちな視線を上げる。ニコルが皿を割った時よりも、さらに気落ちしたような様子だった。
「ニコルを侍女にされるそうですね。ニコルはエンデ家の縁者ですし、あんなことがあったのに」
エンデ家は、カミラの憎いリーゼロッテの一族だ。そのうえニコルは、自分の意思ではないとはいえ、カミラの心をえぐるような真似をした。そんなことがあってなお、カミラは彼女を自分の傍に置こうとしている。その姿は、アロイスから見れば奇妙に映るのかもしれない。
「それに、ニコルが全部話してくれました。彼女の立場や、これまでのこと。今まであんなに頑なだったのに」
「そうなんです?」
それはカミラも知らない。後でアロイスに告げ口しようと思っていたのだが、それよりも先にニコルが動いたらしい。朝、髪を下手に編まれて、カミラが一人で直している間の凶行だろう。
「あなただって傷ついたのに。そういうものを、すべて蹴散らしてしまう。なのに私は、皿一枚でいつまでも落ち込んで……自分が恥ずかしいです」
そう言うと、アロイスはカミラから視線を逸らした。恥ずかしい、と告げる言葉も恥ずかしそうだ。
「でも、お皿はアロイス様にとって大事なものだったんでしょう」
カミラはなにかをなくしたわけではない。王子の姿を見たことで動揺はしたが、それで終わりだ。対するアロイスの皿は、もう永遠に戻らない。落ち込み方も、多少は違うと理解できる。
「大事ではないんです」
アロイスの即答に、カミラは眉をしかめる。アロイスはまだまだばつが悪いらしく、カミラを見る視線もどこか下向きだった。
「大事なものではないんですよ。……いや、大事なものかもわからないんです。覚えていないから」
「はい?」
アロイスの言いたいことがわからない。いぶかしむカミラに向け、アロイスは少しのためらいの後で口を開く。
「私の両親は、事故で亡くなったとはご存じでしょう?」
聞いたことがある。アロイスがまだ十五の時だった。以来、彼は八年以上、辺境であるが広大なモーントン領を治め続けていた。
「あのとき、私もいたんです。魔石による魔力の暴走だったと聞いています。父と母はその事故で亡くなりましたが、私は死なず、代わりにそれまでの記憶をほとんど失くしました」
瞬きを一つ。一度で言葉の中身を理解しきれない。
――記憶がない?
十五歳以前。思えば、たしかにアロイスの過去については、あいまいな言葉ばかりだった。
運動しろと迫ったときも、『昔はやっていたはずだ』と濁したり、リーゼロッテを覚えていなかったり。十年以上会っていないとはいえ、アロイスは現在二十三。十年前でも十三歳。まるっきり覚えていないほうが奇妙な話だった。
「まったく、なにもかも忘れたわけではありません。おぼろげに覚えていることもあります。かすかに残る両親の記憶は、ですが、どれも優しいものではありません。昔は思い出したいと思っていたこともありますが、今はもうすっかり――――」
忘れた気でいたのに。言葉の終わりをため息に変え、アロイスは苦々しく笑った。
「もう乗り越えたつもりだったのに、まだ未練があったんですね」
父と母の幻影は、記憶を失ってもなお、アロイスを追い詰める。父は厳しく、母も厳しかった。アロイスに良い領主であるようにと、ただ徹底して躾けていた。言葉、態度、食事、生活、興味の先まで、両親の手が入らないものはない。
だけどもしかしたら、どこかに愛情があったのではないかと期待してしまう。例えば肖像画が描かれたとき。十歳を記念にしたいと、残しておきたいと思ったから、家族の絵が作られたのではないか。すがるような気持ちが、アロイスにあの、誰も入れない物置部屋を作らせた。
時がたち、成長し、両親のいない悲しみが遠くなってもなお、アロイスは皿一枚に揺り動かされた。乗り越えたと思ったのは、アロイスのただの願望だったのだ。
「すみません、こんな話」
とつとつと語る口を、アロイスは我に返ったようにおさえた。それから、カミラにいくらか弱気な視線を送る。
「ご不快でしたか?」
いえ、とカミラは短く答えた。不快ではないが、飲み込むのに少し時間がかかる。
横で聞いていたカミラでさえそうなのだ。十年前と言ったって、記憶がないのは今も同じ。アロイスはまだ渦中にいる。
「そう簡単に割り切れないのも、無理ないことですわ」
アロイスの感情を想像することを諦め、カミラは息を吐いた。
慰めの言葉が頭にいろいろ渦巻いたが、どれもこれもしっくりとは来ない。そもそも、カミラが優しく慰めるなんて、性分ではないのだ。
だから、思った通りのことを言う。
「本当に乗り越えたいのなら、これから変わっていくしかありません。今後、どうなさりたいのか。アロイス様次第のお話です」
「その通りですね」
アロイスは首肯すると、はっ、と笑うように息を吐いた。
「あなたのそういう割り切ったところ、とても好ましいです」
あんまりにもさりげなく、聞き逃してしまいそうなくらいあっさりと、アロイスは言った。
――もしかして、褒められたのかしら?
しかし、カミラがアロイスの言葉を反芻する前に、彼はさらに口を開く。
「ニコルはあなたの手で変わりました。あなたには、そういう力がある。人の心を変えていくような」
アロイスは語りながら、カミラを見つめる。
屋敷へ来たばかりの時とは違う、素直で正直で、誠実な視線だった。
「あなたの傍で、僕も変わりたい」
あまりにまっすぐな言葉に、カミラの方が落ち着かない気持ちになる。ん、と喉を詰まらせ、アロイスから視線を逸らし、だがこうも戸惑うのも癪で、逆にカミラはむきになる。
一度逸らした視線をアロイスに向けなおし、ぐっと手を握ってから言ってやった。
「……そ、そういうことは、半分に痩せてからにしてくださいと言いましたでしょう!」
「半分でいいんですか?」
以前にも、同じような会話をしたことがある。アロイスの返しも同じだ。『半分でいい』などと、常人の三倍はあろう体格の、どこから出てくるのだ。
反発心でもってアロイスを見やるが、彼の方はどこか態度がおかしい。強気の言葉のわりに、彼の表情はまるで、窺うような、恐れるような――不安さがあった。
「本当に、半分だけでいいんですか?」
アロイスは確かめるように、もう一度言った。
「――――ユリアン殿下は、細身の方だったでしょう」
ああ、とカミラは心の中でつぶやく。
――『半分でいい』って、そういう意味。
『なんだ、その程度か』という意味ではない。簡単に痩せられると、カミラに挑んできたわけではない。
アロイスなりの、本気を込めた言葉だったのだ。
なんだか、すとんと腑に落ちた。
アロイスは、気恥ずかしそうな顔でカミラから顔を逸らす。
その態度が、逆に気まずい。居心地が悪くなる。自分の部屋なのに、アロイスよりも落ち着かない気持ちになる。
だけど、悪い気分ではない。
アロイスに「きれい」と言われた時よりも、不思議とずっと、うれしかった。
それが釈然としない。
釈然としないから言ってやった。
「アロイス様って、普段は『僕』っておっしゃるんですね」
「…………からかわないでください」
アロイスはすねたように顔を逸らした。荒れたヒキガエル顔でもわかるくらい、頬が赤く染まる。その姿に、カミラはにやりとしてしまう。
これは良いことを知った。今まで散々、偉そうに丸め込まれてきたのだ。しばらくはからかってやろう。
こういう恨みを、カミラは忘れないのだ。