2-10
ニコルを自室に連れ込むと、カミラは彼女に櫛を押し付けた。
「梳かしなさい」
それだけ言うと、カミラは編み込んでいた髪を自ら解き、椅子に座ってふんぞり返った。背後で、ニコルが櫛を持ったまま戸惑う気配がする。
「あの……」
「梳かしなさい」
カミラは同じ言葉を繰り返す。正面を見据えたまま、かみ殺すように息を吐く。まだ怒りが収まらない。本当は侍女たちの方を捕まえてやるつもりだったのに、反射的に手を取ったのはニコルの方だった。
賢い行動ではなかったと思う。だが、もう一度同じ場に立っても、カミラはニコルの手を取るだろう。言われたい放題でうつむき、言葉もなく震える彼女に、どうしようもなく腹が立つ。
ニコルは、カミラの背後でしばらくためらっていた。だが、カミラを前に勝手に出て行くわけにもいかず、立場上命令に背くわけにもいかない。
「…………失礼します」
細い声でそう言うと、カミラの髪を手に取った。
ニコルの手は不器用だ。
力加減がわからない。髪の流れがわからない。櫛と髪を平行に、力を入れずに梳くことができない。
「いたっ!」
櫛に髪を巻き取られ、思わずカミラが声を上げると、ニコルの手が止まる。怯えが背中からも伝わってくる。いつもの無鉄砲な勢いはない。こちらが、本来のニコルなのだ。
「す、すみません。やっぱり、私……」
「梳けないからって、櫛を回すのをやめなさい。髪の流れに逆らわないで、もう一回」
「…………はい」
従うことが身に染みているのだろう。ニコルは逆らうことなく頷いた。それから、こわごわとまたカミラの髪に触れる。
二人の間に、会話はほとんどなかった。たまに、カミラがニコルに注意をする。同じことを繰り返すと、少し怒る。怒らなくても、カミラは不機嫌を崩さなかった。
「あの」
その奇妙なやり取りに、ついに耐え切れなくなったようにニコルは声を上げた。手はカミラの髪を取ったまま、櫛を握りしめたまま、遠慮がちに言葉を落とす。
「……怒っていらっしゃいます……よね。私のこと」
「当り前よ」
「はい……。罰なら、私が受けます。どんなことでも」
「だったら手を動かしなさい。止まっているわよ」
カミラの言葉に、はっとしたようにニコルは櫛を引く。反射的な行動に力加減が追い付かなかったらしい。カミラの髪が強く引かれる。
「痛い!」
「す、すみません!」
「力を入れ過ぎ、って何度も同じことを言わせないで。そんなことで人の世話なんてできないわよ」
「はい」
ニコルは素直に頷くと、以前よりは少しましな手つきで、慎重にカミラの髪を梳かす。
「私の侍女になるんだから、それなりのことはできてもらわないと困るわ」
「はい」
カミラの黒髪は、柔らかくもなければふわふわでもないけれど、よく手入れされて艶めいている。それを割れ物のようにこわごわと、一梳き。二梳き。三度目の櫛を入れようとしたところで、顔を上げた。
「……はい?」
「いた! って何度言わせるのよ!」
「奥様? 私を、奥様の侍女に?」
「奥様って言わないでちょうだい!」
この言葉も、カミラは何度言ったかわからない。まだ奥様ではない。まだ決まったわけではない。もう少し、カミラには時間が必要なのだ。
「どうして…………」
だが、カミラの内心をニコルは知らない。ただ、侍女という言葉が信じられないように瞬きをする。手は完全にお留守だ。
「どうしてもなにも、あの子たち、全員辞めさせてやるわ。その時に、あなたが責められたら腹が立つじゃない!」
カミラの立場は、一応はアロイスの客人。未来の妻だ。使用人たちに好かれていないとは知っているが、表立って悪口を言えるような相手ではない。
その侍女もまた同じ。今までのように、無理に仕事を押し付けることはできなくなる。ないがしろにはできない。少なくとも、カミラの傍にいる間は。
「辞めさせた後は、好きにすればいいわ。魔力持ちなんて、どこに行ってもやっていけるでしょう? 家族がどうとか考えているなら、余計なことよ。エンデ家程度の家格、シュトルム家にも及ばないわ。――――今は、アロイス様に頼ることになるけど」
そこだけ、どうにも情けない。しかしカミラに力ないのも事実。頼る先がアロイスしかないのだからしかたない。彼もおそらく、ニコルを無下には扱わないだろう。
いささか不服なカミラを見下ろし、ニコルはまた「どうして」とつぶやいた。
「どうして、そこまでしてくださるんですか? 迷惑ばっかりかけたのに、私のために……」
「あなたのためじゃないもの」
ふん、と鼻を鳴らし、カミラは胸を反らした。眉間にしわを寄せ、まっすぐに前を睨みつける。
「私が、腹が立ったのよ」
自分が痛むことなく、人を傷つけて笑う人間が嫌いだ。
やられるばかりで、ただ黙って耐えるだけのニコルにいら立った。
それだけだ。
「わかったら、手を動かしなさい! 髪の一つも結べないなら、一時的でも侍女になんてなれないわよ!」
「は、はい!」
慌てて返事をすると、ニコルは櫛を握りなおした。
何度も何度も繰り返しながら、ニコルの手つきは少しずつましになっていった。
カミラが怒る回数も減る。カミラの不機嫌をほどくように、ニコルは髪を梳く。
「上手いじゃない」
カミラの言葉に、ニコルは答えない。黙って手を動かす。
窓から差す日は、傾き始めている。昼からいったい、どれほど繰り返してきただろう。途中で弱音を吐くかと思ったが、ニコルは何度も失敗しても、投げ出そうとはしなかった。
無言のまま、ひとつ。ふたつ。髪の束を梳く。
「奥様」
みっつ。ニコルが櫛を流しながら、ぽつりとつぶやいた。
「私、エンデ家の妾腹なんです。それも、直系ではなくて」
「聞こえていたわ」
「使用人のお手付きなんです。母には夫がいて、兄弟もいたんです。それだけなら、放っておかれるだけだったのに」
家族、兄弟。それも聞こえていた。
「私に魔力があったから……。私、家族の人質なんです。私を逃がさないために、家族はみんなエンデ家の下で働いています」
ニコルの故郷では、エンデ家に睨まれて働く先はない。領主であるモンテナハト家とも懇意の家柄。とても逆らうことはできなかった。逆らえば、仕事がなくなるだけではない。町自体にも居られなくなる。
髪を梳くたびニコルは語る。ぽつりぽつりと、こぼすような言葉だった。
「エンデ家のお嬢様方は、私に仕事を押し付けてきました。断ることはできませんでした。でも、それがだんだん変わって、わざと失敗するようなことを言いつけられるようになりました」
ニコルの手は止まらない。滑らかに手を動かしながら、ため息を落とす。
「そうするうちに、なんだか魔力が落ち着かなくて。最近は瘴気が強いせいもあって、自分でも抑えられなくて。でも、人を傷つけるわけにもいかないから」
ため息とともに、ぽとりとぬるいしずくが落ちる。カミラの髪に落ちたそれは、髪筋に沿って流れ、床に落ちた。
「部屋はみんながいるし、お屋敷にはたくさん人がいるし、それで、私、それでも抑えられなくて」
腹を立てたり、緊張したり、落ち込んだり。魔力は感情によって左右されるという。
――ニコルの魔力の暴走は、たいてい一人の時だった。
誰もいない場所。ニコルは一人きり。ああ、とカミラは、ぱたぱたと落ちる涙の音を聞きながら理解した。
「あなた、ずっと一人で泣いていたのね」
忍ぶような嗚咽が背中から聞こえてくる。
ニコルが手を止めても、もうカミラは怒らなかった。