2-9
沈んだ後は怒りが沸いてくる。
一晩たった今、カミラの心にあるのは煮えたぎるような感情だけだった。驚き、戸惑い、悲しみまでもすべて飲み込んだ怒りは、カミラをおとなしくさせてはくれない。
明らかな悪意があった。
明らかにカミラを傷つけようとした。
それを見て、楽しもうとしていた。よく聞こえてくるうかつな陰口とは違う。もっとずっと狡猾で、底意地が悪い。
ニコルを手足に、悠々と高みの見物していたのは、誰だ。
――落ち込んだままでいてたまるもんですか。
心を沈ませるほど、相手は喜ぶ。立ち直れない期間が長いほど、相手の楽しい時間は続く。
だから、心なんて折られてたまるか。いつだってカミラは、自分の足で立ち、顔を上げてきた。
それが不器用なやり方で、結果的にたくさんの敵を作ることになったとしても。
――ニコルを問い詰めてやるわ。
誰がけしかけたのか。なんのために人の傷をえぐる真似をしたのか。人を笑おうとした人間は誰だ。
――自分だけ高みになんていさせないわよ。
アロイスは犯人を捜すと約束してくれたけれど、カミラは人に任せきりで、ただ待ってはいられる性分ではなかった。
誰になにをしたか、わからせてやる。
震える怒りを噛みながら、カミラは大股で、一人屋敷を進んでいた。
向かう先は、侍女たちの部屋だ。
屋根裏。一階。北向きの部屋。日当たりの悪い部屋。
屋敷の中のそういった部屋は、住み込みの下級使用人や、若い上級使用人たちの居室として使われる。多少年配になり、身分が上がればもう少し良い部屋があてがわれる。
メイドたちの住む屋根裏には、すでに乗り込み済みだ。仕切りだけで区切られた共同の部屋に、ニコルの姿はない。他のメイドに問い詰めれば、侍女たちに呼び出されたと吐いた。
ならば次は、階下の北部屋。侍女たちの住む場所だ。
侍女の部屋は、屋敷の北側、突き当りにある。若い侍女には一人一人に部屋が与えられず、数人の相部屋となっていた。それでもメイドたちよりは部屋も広く、待遇は良い。
一階にある北向きの部屋。並んだ三部屋は、すべて若い侍女たちの部屋だ。一つは扉が開いたまま。残り二つは閉め切っており、片方からは扉の隙間から、光が漏れている。
今はまだ昼過ぎ。灯りを付けるには早い時間だが、北向きの部屋はいつも薄暗く、明かりを絶やすことがない。
誰かがいるのだ。
周囲に人の気配はない。乗り込むべきか、様子を伺うべきか。逡巡する間に、声が響いた。
「ニコル! あなたちゃんと言われたとおりにやったんでしょうね!?」
反射的に、カミラは息をひそめた。
立ち聞きは得意だ。
○
「旦那様が、犯人探しをしているのよ。あなた、余計なことは言ってないでしょうね? ちゃんといつもみたいに言ったわよね?」
まだ若い少女の声に、ニコルは体をこわばらせた。背丈も体つきもそう変りないのに、長年の関係が、条件反射で恐怖を掻きたてる。
「『私がやりました』って、ちゃんと言ったんでしょうね! まさか、告げ口なんてしていないでしょうね。そんなことしたら、どうなるかわかっているものね?」
少女の柔らかい巻き毛は、ニコルと同じ金色をしている。そばかすがなくて、もう少しニコルの鼻が高く、いくらか目つきが鋭ければ、少女とそっくりだったかもしれない。
当たり前だ。ニコルと彼女には、同じ家の血が流れているのだから。
「なにか言いなさいよ、このグズ!」
少女はニコルの肩を押す。ニコルはよろめくが、なにも言わない。黙っていれば罵声を浴びせられるが、答えればもっとひどい罵声が来る。だったら、口を開かないほうがましだ。
黙ったまま、口を開きそうにもないニコルに、少女はいら立ったように髪を掻いた。少女の傍で、彼女と親しい別の侍女たちが「まあまあ」となだめる。
「落ち着いてよレオノーラ。あたしたちだってバレたわけじゃないんだから」
「そうそう。犯人探し、ってことはさ、要するに犯人が誰だかわかってないってことよ。今からいくらでもやりようがあるわ」
少女を宥める侍女たちも、ニコルの味方をしてくれるわけではない。腹立ちまぎれに、自分たちまで巻き込まれるのが嫌なのだ。
ふん、と少女は鼻を鳴らす。それで納得したのかは知らない。ただ、いくらか落ち着いた様子で、またニコルを睨みつける。
その瞳は、髪色に似た透き通る金。この瞳の色も、ニコルとは違う。
「あーあ、あたしも魔力があればなあ。こんなところにはいなかったのに。こんなグズじゃなくて、あたしが魔力持ちだったなら、今頃王都で王子様に見初められていたところよ――――リーゼロッテみたいに」
ニコルに向けるのとは違う憎々しさで、彼女はリーゼロッテの名を口にした。
「昔は『アロイス様、アロイス様』ってうるさかったあの女が、本当に上手くやったものよ。今は王子の婚約者、それでゆくゆくは王妃様! たいした器量でもないくせに!」
「王妃様って、相手は第二王子でしょう?」
少女の言葉に、他の侍女たちが顔を見合わせ、くすりと笑う。その様子を、少女はさらに嘲笑った。
「あれが、そんなもので満足するわけないでしょう」
吐き捨てるようにそう言うと、少女は再びニコルに目を向ける。
「あたしだって満足しないわよ。こんなところで侍女なんて。傷がつくわけにいかないの。わかるわよね、ニコル」
ニコルは黙ったまま肩をすくめた。少女は、お構いなしに話を続ける。
「今回のことは、全部あなたがやったのよ。王子様に捨てられたかわいそうな悪役女を慰めるため、あなたが考えて、あなたが一人で実行したの。いつもみたいにね。――――ねえ、返事は」
「………………はい」
いつも通り。ニコルはかすれた返事をした。指の先が、血の気を失って震えている。感覚が失せて、魔力の流れが見えなくなる。今にも漏れ出しそうで怖かった。
「旦那様も、悪役女も、あなたの言葉を聞いていなかったかもしれないわ。今度こそ、しっかりと伝えなさい。旦那様の前で、ちゃんと自分がやったと伝えるの。自分が犯人だから、犯人探しは止めて、自分だけを罰するようにって。言えるわね?」
「……はい」
「魔力がなければ、あなたはエンデ家の末端にもいられなかったのよ。妾腹の子が、どうしてここにいられるか考えなさい。あなたの兄弟、家族、みんな誰が養っているのか、わかるわね」
「はい」
「じゃあ、繰り返し。あなたが全部やったのよ。言いなさい」
ニコルは手のひらを握りしめた。あふれ出しそう。感覚の失せた体が、魔力が制御できない。
「――はい! 私が自分の意思でやりました。全部――――全部!」
ぱちり、と静電気のように、指の先がしびれる。
その手を、誰かが強く掴んだ。
勢いよく扉が開いたことに、ニコルは気が付いていなかった。
誰かが大股で、足音を立てて入ってきたことも気が付かなかった。
少女たちが驚いた眼で、ニコル――の手を掴む人物を見ていたことも。
「こっちに来なさい」
低く落ち着いたようでいて、だけど確かに怒りのにじむ声がした。同時に、強く腕を引かれる。有無を言わせない力に、ニコルは逆らえなかった。
「…………奥様」
相手は、ニコルが魔法で傷つけた相手。王都から辺境まで、追放同然に嫁いできた女。いずれはこの屋敷の女主人になる――カミラだ。
顔を上げ、ニコルは背の高いカミラを見た。伺い見た横顔は険しく、抑えきれない感情に満ちている。
――さっきの言葉を聞いていたのかしら。
私がやりました。ニコルは確かに、自分の口で言ったのだ。
「私、怒っているのよ」
カミラはニコルを睨みつけ、一言だけ告げた。
背後で、少女たちがほっと息を吐く。怒りの矛先が、自分たちでないことに安堵したのだろう。
カミラはニコルだけを連れ、部屋の外へと連れ出した。
最後に、部屋に一瞥をくれたことも、常に感情的な彼女の、ぞっとするほど冷たい視線に、少女たちが言葉を失ったことも、青ざめたニコルは気がつかなかった。