2-7
結局、アロイスはニコルをほとんど叱らず、なぜあの場にいたのか追及することもなかった。ただ、ニコルをカミラともども部屋から追い出しただけだ。
扉の前で、カミラは青ざめたまま立ち尽くすニコルを、もう戻って休むようにと追い払った。それからしばらく、一人部屋の前で待っていたが、アロイスが出てくることはなかった。
翌日から、アロイスの食生活が戻った。
いや、悪化した。
完全にやけ食いである。
○
「アロイス様! またこんなに食べて!!」
数日後の茶会。あれから、カミラはこの言葉を、もう何度言ったか分からない。
「もう痩せる気はなくなったんですか!? さっきから、ずっと食べ続けていますよ!」
カミラが叱りつけると、アロイスははっとしたように手で自分の口を押さえた。もう一方の手は、つまみやすい一口大の焼き菓子を掴んでいる。
かごいっぱいに盛られた焼き菓子は、小さなカップケーキや砂糖をまぶしたスノーボール。アーモンドを練り込んだ丸い形のバターケーキ。砂糖で飾った色とりどりのクッキーたち。
鮮やかにアイシングされたクッキーは、料理人のいたずら心だろうか。クッキーに描かれた赤や青の花の、あまりのかわいらしさに、思わずカミラも手を取ってしまった。
が、一口食べて後悔した。砂糖のかたまりをかじるより、よほど甘いとはどういうことか。よくもまあアロイスは、こんなものを平気で食べられるものだ。
それを、アロイスは先ほどからずっと、つまんでは食べ、つまんでは食べていた。一度に多くを食べるわけではなく、少量をいつまでも食べ続けているあたりが、妙に痛々しい。
しかも、このありさまは今日だけではない。ニコルがアロイスの皿を割った日から、ずっとこの調子だった。
見ていられず、カミラはこれまで何度も静止をかけてきたが、まるでアロイスの心に響いていないのは、屋敷に来た当初以上に明白だ。一瞬だけ我に返るものの、しばらくすればすぐにまた思考に沈み、食べ続けてしまう。
「カミラさん、す、すみません。つい呆けていて……」
アロイスはつまんでいた焼き菓子を手放すと、しおしおとその手をひっこめた。うなだれたその巨体は、空気が抜けてしぼんでいるようにも見える。
「気を付けるようにはしていたんですけども……」
「昨日も同じことをおっしゃっていましたよ」
険しい目つきでアロイスを見れば、彼はしゅんと肩を縮めた。それからまた、無意識のように手を伸ばし、かごの中のクッキーを掴んだ。
「アロイス様!」
「はいっ!」
カミラの静止に、アロイスの手が止まる。まるで子供のしつけでもしている気分だ。
「いったいどうしたんですか。そんなに大事なものだったんですか?」
あの時アロイスは、割れた皿の破片を掴みながら、『父上の皿』と言っていたはずだ。アロイスの父はすでに他界している。となると、あの皿は形見といえるだろう。
――皿。皿ねえ。
陶器の収集を趣味にする人間は少なからずいる。よほど良い一品で、父からアロイスに譲り渡したのだろうか。それとも、なにか思い出でもあるのだろうか。そうでもなければ、皿なんて厨房で管理されるもの。あえて大事に抱えるようなものではないはずだ。
「……いえ」
アロイスはクッキーをつまみ、ぱくりと食べながら言った。
「大事にしていたわけではありませんよ」
目を伏せるアロイスは、見るからに痛ましい。大事なものでもなければ、どうしてこれほど落ち込めるというのか。
「父が亡くなったのも、もう十年近く前ですし。ちょっと、驚いただけですから……」
言いながら、また一つ取って食べる。巨体を縮めてさくさくさくさく食べる姿は情けなく、大きいくせに小動物の感があった。
「アロイス様、しっかりなさってください。ほら、強い心をもって!」
「はい。私は大丈夫です」
「気をたしかに! 公爵がそれでどうするんですか!」
「はい。私は大丈夫です」
駄目だこりゃ。
○
茶会からの帰り際。カミラは中庭を歩きながら頭を悩ませていた。
アロイスは、まだ茶会の席に残っている。呆けがちな彼は、最近は行動が一拍遅れ気味だった。それでも執務に影響を出さないあたり、公私を使い分けられているということなのだろう。茶会にいるときに気が抜けてしまうのは、多少なりともアロイスが、カミラに気を許しているからなのかもしれない。
――なら、ずっと仕事をさせていればいいのかしらね。
そんなことをすれば、さらに心折れそうだ。頭に浮かんだ意見を没にして、カミラはため息をついた。
そもそも、最近は上手くいきすぎだとは思っていたのだ。
なにかあるとは思っていた。これまで十八年の人生。順調に物事が進んでいるときほど、大きな落とし穴があったものだ。王子との婚約目前で辺境へと飛ばされたカミラは、そのことを身に染みて知っている。
――心が弱かったわ。
思いのほか打たれ弱かった。
アロイスは、十五のときに両親を亡くし公爵位を継いだだけあって、かなりしっかりとした人間だ。いつも落ち着いて、感情を見せることはめったにない。寛容――というよりも、無頓着な部分があり、他人に腹を立てることがあまりない。使用人を叱ることはまれにあるが、それも大声で頭ごなしに、ということはない。
グレンツェでカミラが屋敷を飛び出したとき。アロイスが声を荒げたのは、あれ一度きりだ。なにかと衝突の多いカミラに対し、これほど落ち着いて接する人間は珍しかった。
勤勉で、仕事に対して熱心で、常に穏やかな態度を崩さない。人当たりも良く、失態らしい失態もしない。見た目以外、アロイスは『良い子』の見本みたいな人間だ。
だから、いくら父親の形見とはいえ、人前で動揺を隠せないアロイスに違和感があった。
――なにかあったのかしら。
そう思えども、なにかあったであろう相手は、すでにこの世にはいない。アロイス自身に聞こうにも、今の状態ではためらいがあった。うっかり刺激して、悪化してしまいそうで怖いのだ。
もやもやとした考えはまとまらない。考えても、どうせカミラ一人ではどうにもならないのだ。諦めの心地で、カミラは頭を振る。
――いいわ。過去よりも、今のアロイス様をどうにかしないといけないもの。
アロイスの過去。それから未来も、いっそ悩むのは後にしよう。
結婚と、その先のこと。不安に思うのは、そもそもまだ早かったのだ。痩せた後のことでごちゃごちゃ悩むなど、皮算用もいいところ。まずはなによりアロイスを痩せさせるのが先決だ。
――初志貫徹! とにかくアロイス様のやる気を戻さないと!
でもどうすればいいだろう?
考え事に没していたカミラの目の前を、ふと誰かが横切った。ちょうど中庭を出て、屋敷へと入るところ。くすくすと笑う少女たちに、カミラは見覚えがある。
――いつも、こそこそ噂している侍女たちだわ。
不遜な若い侍女たちだ。中の一人が金髪の巻き毛で、見た目が少しリーゼロッテに似ている。そのせいで、カミラは彼女たちの顔を覚えてしまっていた。
侍女たちはそのまま通り過ぎ、屋敷の奥へと行ってしまった。挨拶の一つもないのかと、少しむっとしたとき。
「……奥様」
聞き覚えのある声がかかった。
いつもは兵士のように腹から叫ぶくせに、今日の声は妙に小さい。
不思議に思って声を見やれば、背の低い少女がいる。
口を結び、唾をのみ、両手を握りしめたそばかすの彼女は、エンデ家に連なる血筋の娘。強い魔力を持つ問題メイドニコルだ。
「奥様って言わないでちょうだい」
カミラの注意に、ニコルはなにも答えない。代わりに赤い瞳でカミラを見つめ、震えるようにほんの少し揺らめかせた。
が、その表情はすぐに見えなくなる。彼女が腰を曲げ、深く礼をしたからだ。
「これは! 私がすべて自分で決めたことです! 異郷に来た奥様の心を、お、お慰めするために!!」
「は、なに?」
カミラの目の前にあるのは、ニコルの後頭部だけだ。
突然の言葉もまるで理解ができず、戸惑うカミラの見ている前で、ニコルは指を空に滑らせた。なにかを描くように指が動けば、ニコルの髪がふわりと浮かぶ。渦を巻くように、一瞬だけ風が起こる。
――魔法……?
強い魔力の放出に、カミラの頬がしびれた。だが、それも瞬きの間に消える。風も、魔力の名残も――ニコルの姿もだ。
「……ごめんなさい」
かすかな声が、その口から洩れた。
カミラは目を瞬かせる。目の前にあるものが信じられないように、何度も瞬く。口を開く。なにも音が出ず、呼気だけが薄く漏れた。
そこにニコルの姿はない。瞬きの間に消えた。
代わりにいるのは、長い銀色の髪を垂らした、柔和な青年。優雅で品があり、男性からは軟弱だと言われようとも、カミラにとっては誰よりも魅力的だった人だ。
端正な唇を柔らかく曲げ、魔力の灯る瞳を優しく細める。
「ユリアン殿下…………」
喘ぐように、カミラはそれだけを呟いた。