2-5
「あーあ、あの子がいたら、今日の当番も押し付けられたのに」
「だめだめ。あの子いま本当にやばいから。いくら相手がアレでも、傷つけたら洒落にならないわよ」
「魔力が余って、不安定なんだっけ? ふうん……じゃあ、我慢させなければいいんじゃない。思いっきり使わせてあげるの。……ねえ、こういうのはどう?」
○
あれからひと月ほど経った。
アロイスの言葉通り、ニコルがカミラの元を訪れることはなくなった。今は嫌そうな侍女が日替わりで来て、ニコルよりは上手にカミラの髪を梳かす。
一方で、ニコルの破壊活動は激しさを増していた。魔力の暴走は著しく、触れるものをみな壊す勢いで、メイドたちはできる限りニコルを仕事から離そうとしていた。
彼女の魔力の暴走は、主に一人きりのとき。対象は、花瓶や壺といった陶器が主だが、たまにガラスや木材も破壊する。
――そのうち、人にも危害を加えてしまうのではないか。
そう恐れるメイド頭や侍女長ゲルダが、彼女に長い休暇を与えるべきかと考えているらしい――と、アロイスはカミラに教えてくれた。
久々にニコルについて思い出したのは、若い侍女たちが噂しているのを聞いたからだ。くすくすと笑いながら、小声でささやき合う言葉のいくつかが、聞くともなしに耳に入る。
こういうものは、意外と人に聞かれているものだ。カミラの陰口も相変わらず聞こえてくるし、ゲルダが怖いだとか、メイド頭は言いなりだとか、料理人に良い男がいるだとか。
アロイスが少し痩せてきたという話も近頃は聞こえる。しかし、カミラにはまだその変化がわからない。
顎の肉の層が、一つくらい薄くなったのだろうか?
「最近は、瘴気の流れが不安定ですから。魔力も落ち着かないのは、私も同じなのでわかります」
すっかり慣例化したお茶会で、カミラがニコルの最近の事情を尋ねると、アロイスは相変わらずの巨体を揺らしながら言った。彼もなにか思うところがあるらしく、現在のニコルの状態だけではなく、もう少し踏み込んだことまで話してくれる。
「採掘地近辺では、特に瘴気が濃くなっているらしいと報告もあります。瘴気の濃さと魔力は断ち切れないもの。魔石の魔力も不安定で、よく魔道具が壊れると聞きます」
ぎしりと椅子の背もたれに体を預け、アロイスは少し考え込むように言った。
「この辺りは採掘地でもないのに、最近は瘴気の風が強い。風の流れや天気の具合で、こういうことがないこともないのですが……」
そう言うアロイスの言葉を肯定するように、吹き込んだ風がカミラの頬を撫でた。
秋口の風とは思えないほど生ぬるく、頬がしびれる瘴気の風。今までも、微かにちくちく刺すような風が吹いたことはあったが、確かに最近は、こういう風が続いている。グレンツェにいたころの空気に、少し似ている気がした。
空は高く、重たい曇り雲が風に乗り、北から南に駆けてくる。
今にも雨が降りそうな天気だから、今日の茶会は中庭ではなく、アロイスの私室だ。風は、開け放たれた窓から吹き込んできていた。
「瘴気が不安定な時は、ちょっとしたことで魔力が漏れ出てしまいます。腹を立てたり、緊張したり、落ち込んだりしてもそうですね。そういう時は、定期的に発散して、魔力がたまった状態にしないことが肝要です」
魔力がなければ、暴発することもない。定期的に魔法を使ったり、無意味に魔力を流したりして体の魔力を減らしておくのだ。
不便でしょう、と苦笑するアロイスに、カミラは頷く。
魔力がそう便利な力でないことは、カミラも他人事ながら知っていた。
カミラは魔力をほとんど持っていない。魔法は、幼いころに一つだけ、人から教えられたきり。カミラに魔法を期待するような人間は現れなかった。
それでも、カミラは魔力について多少の知識がある。
ユリアン王子が、強い魔力持ちとして知られていたからだ。
――殿下も、魔力の強さで苦労されていたわ。
強すぎる力は人の力では操りきれず、人から恐れられるものだ。
ゾンネリヒト第二王子ユリアン。彼の魔力の高さは、幼いころから突出したものだった。
瞳から滲む魔力は、幼い彼の力では抑えることができず、長らく彼の母――王の第二妃によって隠されてきた。
彼の魔力は、人の心を奪う。魔力を帯びた彼の瞳に、人々は抗うことができず、自らの意思に反して魅了される。そのあまりに強い力を恐れ、王妃は彼女自身が死ぬまで、王子を王宮の塔の中へ閉じ込め続けてきたのだ。
ユリアン王子は、王や兄王子――彼の家族ともほとんど顔を合わせることがなかった。それが、現在の第一王子エッカルトとの確執とも言われていた。
もちろん、今ではユリアン王子は自身の魔力を操ることができるようになった。鮮やかな赤い瞳は変わらないが、そこから魔力が溢れることはない。今の彼が人の心を奪うのは、ひとえにその優雅な物腰と、線の細い優しい面立ちのせいだ。軟弱で男らしくない、などと男性諸氏からは不満も上がっていたが、そんなことはカミラの知ったことではなかった。
柔和なしぐさも、かげろうのような儚さも、ユリアン王子だから素敵だった。それだけの話だ。
「――カミラさん?」
柔和さとも儚さとも違う体格が、カミラの目の前でぷるんと揺れた。
「どうされました? ぼうっとされて」
「い、いえ」
アロイスの大きな顔が、テーブルをはさんで向かいで傾いている。瘴気が不安定だと言った通り、彼の顔はいつもに増して荒れて見えた。そういえば、魔力が強いらしい他の使用人も、肌を掻いている姿や、湿疹のようにぽつぽつ腫れている姿を見た。
そんな彼の手元にあるのは、大きな皿に切り分けられたバターケーキ。クリームをたっぷり添えたそれは、胸焼けするほどの甘さを視覚的に放っている。
だが、それだけだ。いつもならばおかわりの皿があるのに、今日は一皿きり。
いや、今日だけではない。ここ最近はずっとそうだ。一日の食事も、さらに減らして六食になったという。常人の倍量。とはいえ、以前のアロイスに比べればかなりの変化である。
――本気で痩せるつもりなんだわ。
喜ばしいことではあるが、同時になんとも不安になる。
そんな簡単に上手くいくだろうか。こういうやつは、後々でしっぺ返しが来るものだ――というのが一つ。
――痩せたら、もしかして私は結婚するのかしら。
というのがもう一つ。
たしかにカミラはアロイスを痩せさせて、色男にしたいと思った。
今でも、それは間違いない。痩せて美男子となったアロイスを連れて王都に戻り、リーゼロッテにテレーゼ、ユリアン王子にまでくまなく見せて回りたい。カミラを悪役と書き立てて、アロイスとの結婚を嗤った新聞記者たちに見せつけてやりたい。
これが、お前たちが馬鹿にした相手なのだと、言ってやりたい。そうして一泡吹かせ、悔しがる姿を見て、笑って、笑って、溜飲を下げたい。
だが、溜飲を下げた後。
その先が想像できない。
カミラはアロイスと、結婚して――どうなるというのだろう?