屍の道(後)
両手を壁に当て、耳を当て、目を閉じる。
「――ああ」
端的で、抑え気味の静かな声。よく『冷たい』と称されることもあるけど、リーゼロッテはこの声が好きだった。
――アロイス様。
壁の向こうで、彼はどうしているだろうかと、リーゼロッテは想像する。きっと、こちらに背を向けているに違いない。腕でも組んで、壁にもたれて、すました顔をしているけど、自分の声をきちんと聴いているはずだ。
魔法による偽装も解けて、今の彼は本来の白い髪色をしているはずだ。瞳の色は赤茶けていて、王家との隔たりを感じさせる。白い肌に、少し細すぎる体。いくら食べても太らないと言っていた彼を、何度羨んだかわからない。
いつだったか、真っ白な花のようだと言って、彼の機嫌を悪くさせたことがある。いつのころだろう。まだモーントンにいたころだっただろうか。それ以来、彼を花にたとえるのは禁句となってしまった。
でも、リーゼロッテにとっては、やはり彼は花だった。生まれる場所を選べず、身動きすらできない儚い花だ。雨や風から守りたかったけれど、リーゼロッテの手では結局、なにもできなかった。
「――次は」
次なんてないけど。
わかっていても、口から明るい声を出す。リーゼロッテは彼の影だ。いつでも、最後まで彼を一番に支えるために、ここにいる。
――それに。
「……もし生まれ変わっても会えるなら」
嘘ではない。ごまかしでもない。リーゼロッテの言葉は本心だ。
「次はちゃんと結婚式までやりますよ! 忘れないでくださいね!」
「ああ、ああ。いいだろう、わかった」
「絶対ですよ!」
押し当てた耳をさらに壁に押し付け、リーゼロッテは念を押す。反対側から、ため息が聞こえる気がした。
「絶対に絶対――――」
なおも続けようとした言葉を、リーゼロッテは飲み込んだ。
はっと壁から体を離し、閉じられた部屋の扉を見据える。――人の気配がある。
「……どなたですか」
返事はない。代わりに、無言で扉が開く。
扉から現れたその姿に、リーゼロッテは目を見開いた。悲鳴を上げかけ、慌てて自分の口をふさぐ。
扉の前に立っていたのは、よく見知った人物だった。
痩身の、老齢に差し掛かり始めた女。枯れ枝のように細いが、弱々しさはない。背筋をピンと伸ばし、厳格さを皺に刻み、リーゼロッテを見据えている。
モンテナハト家の忠臣であり、リーゼロッテやユリアンにとっては教師にもあたる彼女は――。
「…………ゲルダ様?」
リーゼロッテはおそるおそる尋ねた。ゲルダは頷きもせず、表情一つ変えない。無言で、リーゼロッテのいる部屋の前に立っている。
「ど、どうされたんですか。鍵は……見張りは……?」
ゲルダの右手には、ナイフが握られていた。左手はなにかを掴み、引きずっているようだ。
「手伝いなさい、リーゼロッテ」
「て、手伝い、ですか……?」
「鍵を渡します。こちらはアロイス様のお部屋へ」
こちら。そう言われて、リーゼロッテはゲルダの背後を見た。
左手で重たげに引きずられるそれは、人だった。ゲルダよりも、さらに年を重ねた細い男だ。眠っているのだろうか。ぴくりとも動かない。
リーゼロッテは息を呑む。不用意に声を上げてはいけない。これはきっと、内密のことだ。
ゲルダは男から手を離すと、リーゼロッテに歩み寄り、指先に引っ掛けていた鍵の束を手渡した。鍵には一つ一つに番号が書いてある。この部屋――独房の鍵なのだろうと想像ができた。
「見張りの交代時間までは、まだ時間があります。裏手から出れば、人に見つかることもないでしょう。道順は、出てすぐ左へ。道なりに行けばわかるはずです。扉は番号が一桁の鍵を順に使いなさい」
「この鍵は。げ、ゲルダ様、どうやって――」
「それから、これを」
リーゼロッテの問いかけには答えず、ゲルダは持っていたナイフを差し出した。
このナイフも、どこから得たのだろうか。罪人であるリーゼロッテたちには、刃物どころか、棒切れの一つも持つことは許されていないというのに。
言われるがまま、リーゼロッテはナイフを受け取った。刃は鋭く、手にずしりと重たい。兵士が懐に持つような、戦い用のナイフだ。
「使った後は持って行きなさい。役に立つかもしれません。彼の服はあらかじめ、アロイス様と交換しておきなさい。私の方はこのままで。囚人の服は、どうやら揃いのようなので」
「ゲルダ様……?」
「部屋の外には魔封じがかかっていません。外から中に向けてなら、魔法を使うこともできるでしょう。それから、わかっているとは思いますが――」
ゲルダは眉一つ動かさない。
「刺すときは部屋の中にしなさい。自分で刺す傷と、他人に刺された傷は違います。甘いことを考えないように。それと、部屋は荒らして、抵抗の跡に見せかけること。周囲からどう見られるかを、常に念頭に置いて行動しなさい」
「……身代わりにするということですか? 彼を、その、アロイス様の」
「獄中で死んだことにすれば、追手はかからないでしょう。死体はあなたの魔法で偽装しなさい。性別しか一致させることはできませんでしたので、魔法は念入りに」
リーゼロッテは浅い息を吐き出した。
死体を偽装し、彼を獄中死したと見せかけて、彼をこの牢から逃がすのだ。死体を偽装すれば、追手がくるまでの時間稼ぎにもなる。その偽装が巧妙であればあるほど、彼は遠くに逃げることができるだろう。
リーゼロッテの能力であれば、他の魔術師たちの目を誤魔化すことができるはずだ。あの『本物』さえ出て来なければ、きっと最後まで騙しきれる。
代わりに、番兵の一人が行方不明になる。なぜか罪人が獄中死し、なぜか無関係な番兵が一人いなくなる。死体の偽装に気付かれなくても、ここで間違いなく足がつく。逃げていられるのは、番兵の行方不明が知られるまで。おそらくは、ほんの短い時間だ。
だが、逃げなければ死だけが待っている。ならばリーゼロッテは、ゲルダの言葉に乗るしかなかった。
「――わかりました。アロイス様のお部屋に行きましょう。せめて、アロイス様お一人でも生き延びていただかなくてはいけません」
「いいえ」
覚悟を決めたリーゼロッテに、ゲルダは短く否定を返す。
「逃げ出すのは、主人に報復した女と、それを手伝う裏切り者の番兵。二人です」
「二人?」
「主人を逆恨みした女が、番兵を誑かし、主人とその恋人を殺して逃げるのです。これならば不自然はないでしょう。死体は二つ。消えるのは二人」
言葉の意味を、リーゼロッテはすぐに受け止められない。困惑するリーゼロッテを見据え、ゲルダはかすかに息を吐く。
「アロイス様をお一人にするわけにはまいりません。逃亡には、あなたの魔法が役立つでしょう。追手の目も、あなたなら撒くことができます」
「で、でも、ゲルダ様……身代わりはそこの一人しか」
「もう一人いるでしょう」
ゲルダの言葉は淡々としていた。いつもとなんら変わりない。メイドに掃除を言いつけるような口調で、リーゼロッテに語り掛ける。
「さきほども言いましたでしょう。性別しか一致していません。魔法は念入りに、と」
枯れ枝のような老女の瞳は強く、迷いない。手の中のナイフが重たかった。
ゲルダは一人で、部屋の中に入ってきた。彼女はナイフをリーゼロッテに渡した後、自分の服を改め、リーゼロッテの着ているものと同じであることを確認している。
つまりは、そういうことなのだ。
「……本気ですか、ゲルダ様」
リーゼロッテはゲルダを見上げる。彼女はこの状況にあっても、背筋を伸ばし、厳格な顔を崩さない。
「冗談を言う猶予はありません。理解したなら早くしなさい」
「ですが、……でも」
でも、なんて言っている時間はない。リーゼロッテ自身もわかっている。
ゲルダは合理的だ。このまま彼一人で逃がすより、魔法に長けたリーゼロッテが傍に居た方が確実だ。この牢獄には、囚人と番兵しかいない。女の死体を用意することは難しい。だから、一番手っ取り早く用意できるものを使う。
理解はできる。他人を利用することだって、今までさんざんしてきたことだ。王家に入り込むために、長い年月をかけ、何人もの仲間を犠牲にしてきた。
「ゲルダ様は、それでいいのですか……?」
伺うようなリーゼロッテの視線に、ゲルダはゆっくりと瞬きを返す。肯定しているのだ。
「私の身は、モンテナハト家の望みを叶えるためにあります。それが復讐であろうと、罪深いことであろうと。長い年月の間にどれほどの者が裏切っても、我らが四家はモンテナハト家に忠誠を誓った、その事実は不滅です」
そのためには、自身の死すらも厭わない。他殺を偽装するために、刺されるのを待っている。
「私にとって大事なものは、モンテナハト家ただひとつ。この命も、親兄弟も主家のためならば利用しましょう。そのために、私は夫も持たず、子も――――いえ、のんびり話をしているほど余裕があるわけではありません」
語りすぎた口を閉ざし、ゲルダは顔色を変えずにわずかに首を振った。改めてリーゼロッテを見やる彼女の顔は、厳格そのものだ。
「アロイス様は、モンテナハト家の最後のおひとり。これからはあなたが守りなさい。どんな望みも叶えなさい。――たとえそれが、復讐ではなくても」
リーゼロッテは目を伏せる。
息を吸い、吐き出す。
――アロイス様を守る。
誰よりも傍に居て、一番に支えたいと思ったのは自分自身だ。そのための方法がこれしかないのなら、リーゼロッテは受け入れる他にない。
元よりリーゼロッテは影だ。人を騙し、嘘をつき、裏切ってきた。影であるモンテナハト家の、さらに闇の中にいる。
「……ゲルダ様、今までありがとうございました」
言いながら、リーゼロッテはナイフを握りしめる。ゲルダは動かず、黙って待っている。
「私も、アロイス様も、いろいろなことを教えていただきました。朝から晩まで、毎日みっちりと。ゲルダ様は厳しくて、怖くて」
人前に立つために、人を騙すために、人の信頼を得るために。ゲルダは教師として、リーゼロッテたちに様々なことを教え込んだ。リーゼロッテは才能を買われ、幼いころに親元を離れ、ずっとゲルダに師事していた。
ゲルダは怖かった。甘さはなく、課題をこなすまで逃げることも許さず、何度泣かされたかわからない。
「……でも」
誰よりもリーゼロッテたちのことを見ていた。辛抱強く付き合い、絶対に見放さなかった。褒め言葉も叱る言葉も、一番与えてくれたのは彼女だった。
「きっと私、自分の親よりも、ゲルダ様と一緒にいた時間の方が長いんだわ」
ゲルダはリーゼロッテを見ている。
思えばいつだって、ゲルダが自分から目を逸らすことはなかった。
「リーゼロッテ」
震えるリーゼロッテに、ゲルダは淡々とした声で呼びかける。こんな状況でも、彼女の声には感情はにじまない。
「魔法をかけなさい。あなたの持つ力を使い切っても構いません。騙しきりなさい。あの男に、今度こそあなたが勝つのです」
いつも通り。無機質で無感情。深く刻まれた皺は、彼女の性格を表すかのようにきっちりと引かれ、伸びた背は最後まで折れることはない。
だけど――――。
「大丈夫」
口の端が、微かに上がる。笑みというには、あまりにも些細な変化だ。
「勝てないはずはありません。あなたは私の、教え子なのですから」
だけど――それはたしかに笑みだった。
〇
牢獄の外は夕暮れだった。
西の端には、まだ赤い陽がわずかに残っている。東からは藍色が滲み、半月がのぼりはじめていた。
風は生ぬるい。モーントンよりも暑い夏の気配がする。風が吹けば雲が流れ、月も太陽も覆い隠された。暗い日暮れだ。
「……大丈夫か、リーゼロッテ」
番兵の服を着たユリアンが、リーゼロッテに振り返る。彼女は慌てた様子で目元をぬぐうと、無理に笑みを作った。
「問題ありません、アロイス様。魔力不足で、ちょっと疲れているだけです」
「そうか」
それだけ答えると、会話がなくなってしまった。
ユリアンは無言のまま立ち止る。牢獄からはもうずいぶんと離れた。舗装された道を外れ、森の中に逃げ込んだおかげか、未だ追手の気配もない。
逃げきれるのかもしれない。この血まみれの服も捨てれば、足取りを追うことも難しいはずだ。
「結局、どこに行っても死体だらけだ」
自分の手のひらを見つめ、ユリアンは息を吐く。進むためにも逃げるためにも、いつも誰かの屍を踏んできた。
屍を踏んで、踏んで、踏んできた先が、この場所だ。
今のユリアンはなにも持たない。復讐は果たせず、モーントン領に戻ることもできない。この足をどこに進めればいいのかさえ、皆目見当もつかない。まるで、親から手を離された幼子のようだった。
「…………これから、どうすればいいだろうか」
途方に暮れた言葉が、口から零れ落ちる。ため息を吐くと、見るともなしに空を見た。
夜に向かう空は暗い。月はすっかり雲に隠れ、星の一つも見えなかった。
――きっと、復讐を続けるべきなのだろう。
せめて一矢報いなければ、これまでの年月はすべてが無駄になる。
モンテナハト家は王家の影として、どこまでも汚いことをしてきた。誰かが死ぬたびに恨みを残し、次の誰かへ託してきた。
逃げるわけにはいかない。それは、過去への裏切りに等しい。
「アロイス様」
無言で手のひらを握るユリアンの横に、いつの間にかリーゼロッテが並んでいた。彼女はユリアンの顔を覗き込み、苦々しく微笑む。
「悩んでおいでですか?」
ユリアンは答えなかった。リーゼロッテは、それを肯定と受け取ったようだ。
「ねえ、それじゃあ――――悪いことしませんか?」
「今さらか? 散々罪を重ねてきただろう」
「そうですけど、もう一度だけ。一番悪いことしませんか」
「簒奪よりもか?」
リーゼロッテは頷く。夜を迎える暗闇の中、どこか暗い瞳を細める。
「逃げちゃいましょうよ」
「…………リズ?」
「全部置いて、この国も出て、どこか遠いところに行きませんか? 行くなら、南が良いですね。北はモーントンがありますから」
ユリアンは瞬いた。リーゼロッテの口から、そんな言葉を聞くとは思わなかった。
――逃げるだと?
ここまで犠牲を出して、すべてを投げ出せると思っているのか。
「馬鹿を言うな、リズ。そんなことをしたら、今まで死んだ人間はどうなる。なんのために死んだと思っている」
父も母も、復讐のために死んだ。ゲルダもユリアンのために命を落とした。無関係な人間も殺してきた。モンテナハト家のために、多くの死体が築かれた。すべては王家への復讐のためだ。
ユリアンは死体の上に立っている。逃亡は、自分たちの足元を支えるものへの背信だ。
「許されるはずがないだろう。今さら、俺に託した期待を裏切るなんてこと」
「許されなくても、いいじゃないですか」
リーゼロッテは笑う。両手を後ろに組んで、金色の髪を垂らし、重たげな息を吐き出した。
「今までずっと、許されないことをしてきたんです。決してきれいな身の上じゃありませんもん。前へ進む道も戻る道も、血まみれの屍でできているんです」
モンテナハト家の進む道は、どこまで行っても影の中。死体の上を歩き続ける。復讐を果たしても、踏み残してきた血の跡が消えるわけではない。
ね、とリーゼロッテは小首を傾げる。
「どうせ、ずっと嘘と裏切りを続けてきたんです。それなら、もう一回くらい裏切っても変わりませんよ。最後に一番悪いことをしましょう?」
ユリアンは答えられない。
生まれたときから復讐を決められてきた。そのためだけに生きてきた。自分の代で不可能であれば、ただ次に託すのみだった。
「みんなから恨まれても、失望されても、全部に背を向けちゃいましょうよ、アロイス様。許される道なんて、どこにもないんですから」
逃げて、隠れて、投げ出して。罪を背負って生きていく。
そんなこと、考えたこともない。
「だから、好きなことしちゃいましょう。私はアロイス様のどんな望みも叶えます。もちろん、王家への復讐を続けるとしても、どこまでもついて行きます」
夜風が吹き抜け、リーゼロッテの髪をさらった。いつの間にか太陽は沈み、夜になっている。
この手は血で汚れている。それを悔いたことはなかった。
誰かに望まれ、ユリアンは歩いてきた。でも今は、彼の傍にはリーゼロッテがいるだけだ。
誰もユリアンの手を引きはしない。復讐のための道は途切れ、本懐を果たす手段も失せた。
――俺の望み。
ユリアンは目を閉じる。きっとこの先、逃げ続ける日々が待っている。復讐を続けても、諦めても、永遠に影の中を生きていくのだ。
いっそ無謀に王家に剣を向け、殺されるほうが楽かもしれない。処刑されてしまう方が楽だった。誰かに期待されるままに生き、死ねたなら、こうして放り出されることも、考えることもなかった。
――俺自身の望み。
やりたいことは、なにも思い浮かばなかった。
ただ、約束だけが耳に残っていた。
白い花に、白いドレス。結婚式は春がいい。
春は過ぎてしまった。
だからきっと、もう一年だけは生きなければいけない。
2019/01/18 書籍化しました。現在発売中です。
加筆もしていますので、ぜひぜひよろしくお願いします!




