ひと月後、王都(4)(終)
扉から現れたのは、木製の皿を手にしたカミラと、彼女に連れられた数人の子供たちだった。
いや、子供たちがカミラにまとわりついている、と言った方がいい。カミラの手にしたさらに手を伸ばしたり、ねだるように腕をゆすったりしている。
「カミラ、もう一個ちょうだい、もう一個」
「だから、駄目だって言ってるでしょう。あんたそう言って、いくつ食べたの!」
「お姉ちゃん、残った生地でもう一回焼いていい? 先生が火をつけてくれるって」
「はいはい。残りは好きにしていいわよ。ちゃんと先生の言うこと聞くのよ? 勝手に火を触っちゃだめだからね!」
「おしっこー」
「早く行ってきなさい!!」
ぱちん、と子供の背を叩いて外へ促すと、カミラははっとしたように顔を上げた。アロイスの視線に気がついたのだ。
取り繕うように顔をしかめると、彼女はまっすぐにアロイスの元に歩み寄り、手にしていた皿を示す。
中にあるのは、子供の手で作ったような、不揃いなビスケットだ。きつね色の焼き色にはムラがあり、ところどころ焼けすぎている。
「カミラさん、これは」
「差し上げます。まだ上手くないけど、一度アロイス様に食べていただかないと、上手くなれない気がするので」
カミラはそう言うと、アロイスの隣の椅子に、すとんと腰を下ろした。忍び寄ってきてビスケットに手を伸ばす子供の手を、「こら」と何気ない仕草ではたく。
「これはアロイス様の分。あなたたちは、自分の分をもう食べたでしょう」
「私の?」
カミラは頷く。すまし顔で、なんてことないように胸を張るが、横顔にはかすかに照れが滲んでいる。
「…………どちらにするか悩んだんですけどね。お話をいただいたのは、『アロイス様』でしたから」
横目でカミラは、アロイスを睨む。口元は結ばれ、眉には皺が寄っている。一見して不機嫌そうな表情だが、きっと、違うのだろうということが、アロイスにはわかる。
「今日は、アロイス様のお誕生日でしょう?」
アロイスは瞬いた。
春。『アロイス』と『ユリアン』は、ほとんど同時期に生まれた。ただし、『アロイス』の方が、数日だけ生まれが早い。
今の王都は、生誕祭どころではない。大々的な祝いはできないだろうが、それでも『ユリアン』は王子だ。簡単な祝いだけでもとエッカルトは画策しているし、町は浮足立っている。もうじき訪れる『ユリアン』の誕生日は、こうして町を出歩く暇もないだろう。
その影で、『アロイス』の存在は忘れられていた。アロイス自身も忘れていたくらいだ。偽りの半生の、偽りの誕生日を、この王都でカミラだけが覚えていた。
呆けるアロイスに、カミラはますます不機嫌そうな顔で、ふん、と息を吐く。アロイスに向ける瞳は、やや恨みがましい。
「アロイス様がおっしゃったのでしょう――――春になったら、二十四になったら、正式に婚約したいって」
「………………ああ」
「ああってなんですか!」
両手を握りしめ、カミラはアロイスに振り返る。怒った彼女の顔を、アロイスは嘆息と共に見下ろした。
吊りがちな黒い瞳が、仇のようにアロイスを睨んでいる。恥ずかしさを隠すように、唇を噛んでいる。明るい頬に、微かに赤が差している。
「まさか、忘れていたって言うの!? ご自分で言ったのに!」
憤るカミラに、アロイスは答えられない。忘れていた、と素直にも言えない。きっと、余計に彼女を怒らせてしまうだろう。
ここに至るまでに、あまりにもいろいろなことが起こりすぎた。
それに、傲慢だろうか――――返答も、もう不要だとアロイスは思っていた。
「そりゃあ、いつまでも答えなかった私も悪かったわよ。でも……でも、適当に答えられることじゃないもの。ちゃんと伝えたかったのよ」
言葉を告げるたび、カミラの表情が険しくなっていく。体は力んでいて、握りしめた手が赤くなっている。でも、怒っているわけではない。
アロイスは、彼女がモーントンでビスケット作りの練習をしていたことを、ギュンターから聞いている。繰り返し作って余った生地は、何度も焼かれては使用人たちにふるまわれた。
だけど、アロイスには渡されることはなかった。カミラが王都にいる間に、ニコルが持ってきたものを除いては。
「カミラさん」
アロイスが名前を呼べば、彼女はむくれたように口を曲げる。一度逃げるように視線を逸らし、すぐに意を決した様子でアロイスを睨む。
「私、うやむやにするの、嫌いなの。それに、私がいるのにアロイス様にお相手の話が出るなんて、悔しいじゃない!」
胸を張って、腰に手を当て、すました顔で。挑む様な瞳で、彼女はアロイスを見据えた。
「アロイス様、婚約の話、お受けしますわ。結婚する頃には、クラウスよりもお菓子作りが上手くなっているわよ」
「ああ……それは楽しみです」
アロイスは、知らず目を細める。この表情は、笑みにも似ているし、眩しさにも似ている。
カミラは本当に、傲慢で自信家で、迷いなくて、眩しい。立ち止りがちなアロイスの手を、いつも強引に引いて行ってしまう。
「ありがとうございます、カミラさん。……食べてみてもいいですか?」
「もちろん。食べていただくために作ったんだもの」
カミラが口を曲げるのを見ると、アロイスはビスケットを一枚手に取った。
口当たりの柔らかいそのビスケットは、懐かしい味がする。ずっと昔、互いが誰かも知らないまま受け取ったビスケットの味でもあり――――グレンツェの孤児院から買い取っているビスケットの味でもある。
どちらも、今のアロイスには懐かしい。代用だったはずのグレンツェの味も、忘れられない記憶の一つになっている。
「アロイス様、いかがです? 今は拙いですけど、これから上手くなると思えば――――こら!」
言いかけた言葉を止め、カミラは横から伸びる子供の手を叩いた。が、気付くのが遅かった。一人の手に気を取られている間に、他の手がいくつも伸びて、ビスケットを奪っていく。
「えへへ、カミラが結婚だって! オニババのくせに!」
「なによ!」
「カミラちゃん、もうこっち来ないの?」
「な、なによ……! …………ああもう、泣かないの! たまに遊びに行くわよ!」
「えー! いいよ来なくて! うるせーもん、こいつ!」
「うるさーい!!」
ビスケットの皿は空になり、カミラは子供たちを追いかけている。
向かいに座るディアナが、いつの間にか手にしていたビスケットを齧りながら、肩肘をついてカミラを眺めた。
「めでたし、めでたし、ってね」
騒ぐカミラと子供たちを見ながら、ディアナは呆れ半分に口を曲げる。
明るい声が響いて、子供たちにカミラが囲まれ、それを見守る友がいる。本当にめでたしというには、まだ先は長いけれど。
この先もずっと、アロイスはこの景色を見ていたい。いつか訪れる最期の時を、めでたしで迎えたい。
いつまでも、いつでもカミラが、胸を張っていてくれることを願っている。
ところが、その願いはすぐに破られた。
「――カミラ様、アロイス様! た、大変です!」
部屋に飛び込んできたのはリタだった。厨房にいたのだろう、エプロンをかけたリタが、慌てた顔でカミラとアロイスを見やった。
「記者が孤児院の前に押しかけてきて……。どこから洩れたのか、ここにいることが知られてしまっていたみたいです!」
アロイスとカミラは顔を見合わせる。騒いでいる場合ではなくなってしまった。子供たちも、リタの剣幕に驚いた様子で、口をつぐんでいる。
「表門は囲まれてしまっています。裏に回りましょう、そこから教会に抜けられます! ディアナ、案内なさい!」
「了解。教会側から逃げるわよ!」
ディアナは立ち上がると、アロイスたちを促した。アロイスは頷くと、帽子を目深にかぶり、ディアナの後を追いかける。
「ばいばーい」
「またね!」
子供たちが、去っていくアロイスたちに手を振っている。
きっと、また訪れることになるだろう。この孤児院も、他のいくつもの場所も。
〇
孤児院を裏口から抜けて、教会に入るところまではよかった。
これで一安心かと外へ出た途端、見覚えのある女記者に出くわした。
「へっへ、表から出てくるとは思ってませんでしたよ」
カメラを構える彼女は、アロイスが町でぶつかった記者だ。愛想笑いを浮かべる彼女を見て、アロイスは苦々しく息を吐く。もしかしたら、あのとき薄々気づかれていたのかもしれない。
魔法を使っていれば、万が一にもバレることはなかっただろう。変装では、元の顔は変わらない。よくよく見ればわかることだ。
「デート中にすみませんがね、教えていただきたいことが、山ほどありますのでね。入れ替わり中の生活のこととか、モンテナハト家の裏側とか。なあに、お時間はいただきませんって」
などと言いながら、女記者は片手を上げる。他の記者への合図だと、駆け寄ってくる数人の足音で気がついた。
教会へ戻るべきか、ディアナは迷っているようだ。増える記者に顔をしかめ、彼女は背後を振り返る。戻ると決断できないのは、その後の逃げ道が浮かばないからだろう。
カミラも身をこわばらせたまま、逃げる先を決めかねている。でも、カミラのことだから、きっとすぐに心を決めるはずだ。
カミラなら、どう選択するだろうか、とアロイスは考える。彼女なら――。
――戻らない。
カミラの決断よりも早く、アロイスは彼女の手をつかんだ。驚いた瞳がアロイスを映す。
「行きましょう、カミラさん」
そう言って、アロイスはカミラの手を引いた。横をすり抜ける二人に、女記者が声を上げる。すぐさま追おうとする彼女を、ディアナが邪魔してくれていた。
周りで集まってきていた記者たちも、追いかけてくる。追われる立場なのに、アロイスの足は軽かった。教会を飛び出して、通りに向けて走り出す。
すれ違う人々が、驚いたように二人に振り返る。変装したアロイスを見て、不思議そうな顔をしている。
アロイスが魔法を使えば、きっとすぐに逃げられたのだろう。
だけど――だけど、それでは面白くないのだ。
「アロイス様!」
手を引かれたカミラが、背後からアロイスの名を呼んだ。アロイスは足を止めないまま、カミラに顔だけ振り返った。
「カミラさん」
戸惑ったカミラの表情がある。不思議な気分だった。いつもはカミラが手を引いて、アロイスが追いかけるばかりなのに。
「モーントンに戻ったら、また町を回りませんか」
「アロイス様、今はそれどころじゃ……!」
「今まで行った町を訪ねましょう。みんなに挨拶して回りましょう。領都も、グレンツェも、アインストも、ブルーメも。それから、ファルシュも。――――お付き合いいただけますか、カミラさん」
カミラは瞬いた。その表情は徐々にしかめられ、最後に首を振る。
再び顔を上げたとき、カミラの顔に浮かぶのは、悪役めいた不敵な笑みだった。ふん、と鼻で息を吐き、取り澄ましたようにアロイスを見据え、偉そうに胸を張る。
「まったく、仕方ないわね」
だが、その不敵な笑みも、またすぐに変わっていく。一瞬だけ目を閉じて、抑えられないように口元をむずむずと動かし、それから。
それから、ついに堪えられなくなって、カミラは笑い出す。
「いいわ! どこまでもつきあってあげる!」
アロイスの手を、カミラは強く握り返す。青空の下で響く彼女の声は、まばゆい明るさだけがあった。
陽光を背にして、足を止めないまま、鮮やかに笑う彼女はきれいだった。
息を呑むほど、きれいだった。
春の終わりを告げる風が、背中から追いかけてくる。花を巻き込んだ追い風は、カミラの髪を巻き取り、アロイスの帽子を飛ばした。
空に流れていく自分の銀髪を見て、アロイスも笑ってしまう。夜の月のようなこの髪も、日に透かせばきらめくのだ。
書きかけのメモに「ホワイトデー合わせ」って書いてありました(憤死)。
ここまで書きたかったので、書けて良かったです。
お読みくださりありがとうございました。