ひと月後、王都(3)
カミラが厨房へと去ってしまった後。
アロイスは孤児院の客間で待たされることになってしまった。
客間は、孤児院の一室とは思えないほど整っていた。柔らかい印象を与える白い壁。教会を一望できる大きな窓。椅子もテーブルも、古びてはいるが上等だ。隅々まで手入れが行き届いていて、この孤児院の裕福さを物語っている。
客間にいるのは、アロイスと、一人の修道女だった。年頃は、四十半ばほどだろうか。客間へ案内した子供たちが「先生」と呼んでいたあたり、この孤児院の職員なのだろう。
修道女は、皺の深い笑みを湛え、ゆったりとした口調で言った。
「ようこそいらっしゃいました。カミラ様からお話は伺っております。――――アロイス様、とお呼びした方がよいでしょうか」
「ええ、それでお願いします。……すみません、急にお邪魔して」
アロイスはそう言って、帽子を取る。あらわになった銀髪を見ても、彼女は穏やかな笑顔を崩さなかった。
「いいんですよ。いつものことですから。お座りになってください、すぐにディアナがお茶を持ってきますわ」
ディアナ、という言葉に、アロイスはもう一度修道女を見やる。
――似ている。
快活なディアナと、温和な修道女。印象は真逆だが、顔かたちの作りがよく似ている。
「…………ああ」
修道女はアロイスの視線に気がつくと、考えを察したように声を上げた。アロイスが椅子に座るのを確認してから、彼女も向かい合うように座り、改めたように顔を上げる。
「ご挨拶が遅れてしまいました。私はこの孤児院の院長をしている、リタ・ヘルナーと申します。ええ、お察しの通り……アロイス様のところでお世話になっている、ディアナの母でございます」
「ヘルナー?」
聞き覚えのある単語に、アロイスは思わず声を上げた。ヘルナー、下級であるが、貴族家だったはずだ。
「あら、ディアナから伺っておりません?」
首を傾げるリタに、アロイスは首を振る。簡単な身辺の話は聞いていたが、ばたばたしていたこともあり、ディアナの身辺調査はしていなかった。モンテナハト家に来た経緯も経緯であり、紹介状もない。だが、シュトルム家に仕えていた人間であり、カミラも信頼している相手だから問題ないだろうと、後回しにしていたのだ。
ディアナ自身も、自分のことを積極的に語る性格ではなかった。知っているのは、彼女の母親がシュトルム家の使用人であり、彼女自身は長らくカミラの侍女をしていたことくらいだった。
リタはかすかに眉をしかめ、頬に手を当てた。「相変わらず、困った子」と言いながら、一つ息を吐くと、そのため息とともに言葉を告げる。
「ヘルナーは、私の主人の姓でございます。ただ、現在は絶縁されていて、私とヘルナー男爵家は一切のかかわりはありませんが……」
「絶縁? ……失礼ですが、ご主人は?」
「亡くなりました。もう十年以上前のことです。絶縁はもっと前から。私が主人と駆け落ちしたときからですので、二十年以上前のことですね」
――駆け落ち。
穏やかな口調から飛び出した、思いがけない言葉に、アロイスは息を呑む。貴族の子息が、駆け落ち、絶縁。それだけで、だいたいの事情が察せられた。
「私は、裕福でもないただの平民でしたから。二人で逃げ出したはいいですけれど、そのあとは行く当てもなく、途方に暮れていた時に助けてくださったのが、シュトルムの旦那様でした。主人の昔からのご友人でいらっしゃって、私たちをまとめて雇ってくださったんです」
シュトルム、と聞いて、アロイスはかすかに眉をしかめる。絶縁状態にあるカミラの両親のことが思い出されたからだ。
あの時、無理にカミラの手を引いて、彼女と両親の仲を断ってしまった。とっさの行動を後悔しているわけではないが、彼らの存在は、今もアロイスの胸に、しこりのように残り続けている。
「主人が亡くなって、私がシュトルム家から離れても、旦那様はまだ支援を続けてくださいます。友人の妻だからと、もうなんの縁もない私を気にかけてくださって、この孤児院にも、旦那様は多額の寄付をされているんですよ」
「――――そんなの、自分を『良い人』に見せるためにやってるだけよ」
乱暴に扉が開かれる音とともに、ディアナの声が割り込んで来た。手には紅茶の乗った盆を持ち、扉を閉めることなくつかつかと客間に入ってくる。
「私はあの人たちの態度を忘れないわ。父さんとばっかり話して、隣にいる母さんにも私にも、一度も声をかけなかったことも。父さんが死んだあと、母さんを追い出すように孤児院を押し付けたことも」
「ディアナ!」
「はい、お茶」
リタの声を聞かず、ディアナは手早く紅茶を並べる。乱暴な手つきではあるが、紅茶の水面はほとんど揺れない。その手際の良さに、アロイスは感心する。
「孤児院への寄付も、単なる見栄のためよ。安っぽい金を送り付けるだけで、『死んだ友人に義理立てて、平民である友人の妻にさえ寄付するシュトルム伯爵さま』って美談になるものね。昔からそう。自分たちを良く見せることしか考えてないのよ。役に立たない人間なんて、相手にする価値もない。平民も、平民の血が混じる娘も――――自分の子供に対してもね」
盆を抱えたまま、ディアナはアロイスを横目で見る。『子供』がカミラを指しているのは明らかだった、
「だから、母さんも見かねたんでしょう。あの子に料理を教えたの、母さんじゃない」
「ディアナ! 口が過ぎますよ!」
「私はあの人たちに感謝するつもりはないわ。表面ばっかり取り繕って、誰の中身も見ていなくて。それでいて、自分たちは『良い人』って本気で思っているんだもの。カミラがいなかったら、あんな家で働いていなかったわよ」
叱りつけるリタに、ディアナは耳を貸す様子もない。すました顔で首を振ると、ふと思い出したようにリタを見やった。
「そういえば、カミラが呼んでいたわよ。窯に入れる炭がないって」
「またそうやって話を逸らそうとして――――炭ですね。ちょっと行ってきますけど、あとでお説教ですからね!」
リタはディアナをひと睨みすると、アロイスに一礼をして部屋を出て行った。
アロイスは去っていく彼女の背を一瞥すると、そのまま視線を伏せる。
シュトルム家へ向けたディアナの言葉が、頭の中に残っていた。
――表面を取り繕い、『良い人』に見せかける。誰の中身も見ていない。そのことに、気付いてもいない。
裁判の日、カミラにすがるシュトルム伯爵を見た。彼らに腹が立った。無理矢理にカミラと引き離した。そのことが、今も忘れられない。
アロイスが彼らに抱くのは、怒りだけではない。
心にわだかまるのは、彼らへの共感と、理解だ。アロイスには、彼らの生き方がわかる。上手く生きていくために、見せかけ、偽ってきた自分自身が重なる。
今まで、同じことをしてきた。仕方ないという思いと、罪悪感がないまぜになっている。
「…………アロイス様?」
無言のアロイスに気付いたのか、ディアナが声をかけた。じっと睨みつける彼女の目に耐えられず、アロイスはそっと目を逸らす。
「……私も」
部屋の壁をぼんやりと見つめたまま、アロイスは呟く。ここが孤児院というのも良くない。どうしても、グレンツェを思い出させる。
「私も、孤児院に寄付をしていました」
「はい?」
「良い領主たろうという目論見がありました。……いえ、そんな目論見に、自分自身で気付いていませんでした」
孤児院だけではない。カミラにしてきたことも、元々の根はシュトルム伯爵と同じ。親切のつもりでカミラを引き取り、彼女を傷つけてきた。
アロイスには、シュトルム伯爵を責める権利はない。彼らが許されないのであれば、アロイスも許されないはずだ。なのにアロイスは、自分の勝手な意思で、カミラから親を奪ってしまったのだ。
「………………クソ真面目ねえ」
うつむくアロイスの頭上に、呆れた声がかけられる。思わず見上げれば、腕を組んでアロイスを見下ろすディアナがいた。
「世の中、一か二しかないわけじゃないのよ。そういう考え方じゃ、気を遣って仕方ないでしょう」
「ですが……」
「最近お顔がすぐれなかったのは、カミラへの罪悪感かしら? 本当に自分と一緒にいていいのだろうか、って思っていたんじゃない?」
返す言葉もなかった。見透かすようなディアナの視線が居心地悪く、アロイスは身じろぎをする。
「アロイス様。あなた、今までしてきたことを後悔しているのね」
アロイスは答えない。それがなによりの返事だった。
モーントンでの十年弱、アロイスは良い領主であろうとして、人の気持ちも何度も踏みにじってきた。物事を数字で見て、表面的な『良いこと』を施してきた。自分が偽善的であることは、自分自身が一番よく分かっている。
でもそれは、シュトルム伯爵夫妻と、なにが違うだろう?
あの日、アロイスが責めたのは、シュトルム夫妻を透かした、自分自身だ。
無言のアロイスに頭を振ってみせると、ディアナはリタの座っていた場所に腰を下ろした。自分で持ってきた紅茶に自分で口をつけてから、どことなく面倒そうに口を開く。
「…………私は大嫌いだけど、あの人たちに救われた人間がいるのも事実なのよ」
ディアナの口調は苦々しい。褒めたくもない、と声からわかる。褒めたくもないけど、でも、褒めるだけの言葉はある。
「父さんと母さんは仕事をもらえたし、孤児院はお金をもらえたわ。相手がどんな人間だって、それでどう思うかは受け手次第よ。実際、お金がないとこの孤児院は立ちいかないもの。さあ褒めろ、称えろって言って金を渡されて、私なら叩き返すけど、ありがとうございますって受け取る人間もいるの。だって、それで明日も生きていけるんだから、その人にとっては恩人には違いないわ」
逆にね、と言って、ディアナは紅茶を一口飲む。
「どんな心を尽くしたって、助けにならないこともあるのよ。カミラが孤児院に通って、子供たちの慰めにはなるけど、シュトルム家からの寄付がなくなる方がずっと困るの。だから母さんは、ずっとシュトルム家に感謝しているわ」
ディアナは、母の出て行った扉を見やり、肩をすくめた。
「シュトルム家の、旦那様と奥様にね。たとえ相手が、自分を見下していると知っていても。誰からも見放された自分たちを助けてくれた相手だもの。――――たとえこの先、誰もがシュトルム家から離れて行っても、母さんだけは見捨てないわ。寄付をもらえなくたって、あっちには相手にされていなくたってね」
「……そういうものですか?」
「そういうものよ。どんなに良いことをしたって、誰からも好かれるなんて無理。でも、偽善でも良いことなんだから、誰からも嫌われるのも難しいわ」
アロイスは目を伏せる。紅茶に揺れる自分の顔を、少しの間見つめていた。罪悪感の中に、微かな思考がもたげる。
シュトルム伯爵夫妻にも、彼らを慕う人がいる。アロイスにも、慕ってくれる領民がいる。偽善であっても、受け止めていいのだろうか。
「あの人たちも、アロイス様も、極悪人じゃないもの。あなたのおかげで、助かった人間がいるのは事実でしょう? それなら、誇ればいいわ。称賛を受け入れ、唾を吐かれても受け入れるのよ」
ディアナの言い草に、アロイスは思わず吹き出してしまった。ひどい言葉だ。アロイス相手に、敬語の一つも使わないどころか、平気で汚い言葉を使う。
時折見せるカミラの乱雑な言葉は、ディアナに影響されたものだろう。それならカミラには、本当に悪い友達だ。
それでいて、無二の友なのだ。
「カミラにとっては、あなたは救いなのよ、アロイス様。それでいいじゃない。なんでも完璧にしたいなんて、傲慢だわ」
「そう……ですね」
アロイスは顔を上げると、少し苦い笑みを浮かべた。ディアナほど思い切りよく考えられはしないが、胸に一つ、風穴を開けられたような気がした。
両親の呪縛の元、良い領主たれと過ごした日々を後悔している。でも、なにもかも悪かったわけではない。カミラへの仕打ちを後悔している。だが、それがあったからこそ、今のアロイスとカミラがいる。
アロイスには救いがある。同じように、シュトルム伯爵夫妻も、周りをよく見渡せば、本心から慕ってくれる人がいるのだ。
「ま、私は誰がなんと言おうと、あの人たちは大嫌いだけどね」
「ええ」
好かれるだけではいられない。正解ばかりは選べない。悔いながら、嫌われながら、新しく選択し続けるのだ。きっと、救いも傍にある。
アロイスは苦笑したまま、水面に映る自分ごと、紅茶を飲み込んだ。砂糖を十も入れていたころとは、味が違う。苦くて柔らかい、紅茶本来の味がした。
「ありがとうございます」
「いいえ、別に」
ディアナがすまし顔で口を曲げたとき――――。
子供たちのはしゃぎ声と共に、扉が開く音がした。
淡いビスケットの香りがする。